第百二十二話 選べる斜めの場所に、名前を急がせない
翌朝、リュミナは水差しの蓋を直した。
それも、とても自然に。
昨日は「今日は直さぬ」と言い、腹が減っているからだと胸を張っていた。今朝は台所へ向かう途中で水を一口飲み、蓋を閉め、太い印が少し見づらい位置になったのを見て、指先で軽く回した。
ぴったりではない。
でも見やすい。
水は飲める。
リュミナはそれで満足し、鍋へ戻った。
リクはその一連の動きを、少し感心したように見ていた。
「今、直したよな」
「直した」
「昨日は直さなかった」
「昨日は腹が減っていた」
「今日は?」
「まだ朝飯前だが、蓋が見づらかった」
セリカが笑いをこらえながら言った。
「理由が単純でよい」
ミナが微笑む。
「選ぶ時に、大きな説明がいらない日もあります」
リオは頷いた。
「はい。直した理由を毎回、深い言葉にしなくてもよいですね」
リクは水差しの太い印を見た。
昨日の“直さない”も、今日の“直す”も、同じ水のためにあった。
見張らないため。
飲めるようにするため。
手を休ませるため。
選べるようにするため。
そこに、いつも立派な理由をつける必要はない。
リクは木札を書いた。
“選べる斜めの場所に、名前を急がせない。”
その下に、もう一枚。
“理由が小さい日もある。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――昨日、父上は水差しの蓋を一度直しました。
――今朝は直しませんでした。
――私は理由を聞きそうになって、やめました。
――父上は、水を飲み、蓋を閉め、窓の外を見ました。
――蓋は少しずれていました。
――でも、閉まっていました。
――理由はあるのかもしれません。
――ないのかもしれません。
――私は、それに名前をつけないでおくことにしました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、襟元を少し締めました。寒かったからです。深い理由ではありません。
リクは手紙を読んで笑った。
「寒かったから」
ミナも微笑む。
「よい理由です」
セリカが今日だけの棚に札を置いた。
“理由を聞きそうになって、やめる。”
リオがその隣に、
“寒かったから。深い理由ではない。”
と書いた。
リュミナが鍋を混ぜながら言った。
「腹が減ったから。深い理由ではない」
「お前の場合、それが世界の中心だろ」
リクが言うと、リュミナは真剣に首を横に振った。
「深いが、説明は短い」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱の太い線について、若い記録官は今日、線を直さなかった。
審理官が理由を尋ねようとして、少し止まった。
昨日までは、直した理由、直さなかった理由、震えた理由、選んだ理由を細かく聞いていた。
それは必要な時もある。
しかし、すべてに理由を求めると、選択そのものが証言になる。
年長の記録官は記録した。
――閉まっている。
――理由は今日は聞かない。
――必要なら、本人から言える場所を残す。
ヴォルクはその記録を見て、低く言った。
“理由を聞かれないのは、少し怖い。”
審理官が問うた。
“なぜですか。”
ヴォルクは黙った。
そして、苦く笑うように答えた。
“今、理由を聞かれました。”
部屋の空気が少し動いたという。
審理官は謝らなかった。
まず、記録した。
“理由を聞かないと決めた直後に、理由を聞いた。”
それから言った。
“今の問いは取り下げます。”
レインは報告を聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「問いを取り下げる」
ミナが頷く。
「よい修正ですね」
セリカは間の棚に札を書いた。
“理由は今日は聞かない。”
その下に、
“必要なら、本人から言える場所を残す。”
さらに、
“理由を聞かないと決めた直後に、理由を聞いた。”
そしていつものように、
“免罪ではない。”
リクはもう一枚書いた。
“問いを取り下げる。”
午後、レムリア商市から手紙が来た。
料理長は水差しの蓋を今日はぴったり閉めた。
男がそれを見て、少し身構えた。
料理長は慌てて言った。
“今日は、たまたまです。”
男は少し笑った。
“たまたまなら、いいです。”
サラ・ベルテは記録した。
――正確な日があっても、正確さへ戻ったとは限らない。
――たまたま合う日もある。
リクはそれを読んで、目を丸くした。
「たまたまぴったり」
リオが微笑んだ。
「ありますね」
ミナが札を書いた。
“正確な日があっても、正確さへ戻ったとは限らない。”
その隣に、
“たまたま合う日もある。”
リュミナが鍋の味見をして言った。
「今日の塩加減は、たまたま完璧だ」
セリカが匙を持って味見した。
しばらく黙る。
「……確かに」
リュミナは胸を張った。
「たまたまではないかもしれぬ」
「得意になりすぎるな」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――今朝、水差しの蓋は少しずれていた。
――閉まっていた。
――私は直さなかった。
――理由は、うまく言えない。
――昨日直したから今日は直さない、という試験でもない。
――支配を手放したから直さない、という立派な話でもない。
――ただ、今日は窓の外の雲を先に見たかった。
――それだけかもしれない。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。匙の位置はたまたま食べやすかった。得意にならないことに成功したかは、まだわからない。
リクは手紙を読み、静かに笑った。
「雲を先に見たかった」
ミナが言った。
「よい理由ですね」
セリカが頷く。
「立派すぎない理由は、信じやすい時がある」
リュミナは追伸を見て満足そうだった。
「成功したかは、まだわからない」
「得意にならないことまで、まだわからないのか」
「人は深い」
「二杯目も深いな」
今日だけの棚に札が増えた。
“立派な話ではなく、雲を先に見たかった。”
“立派すぎない理由は、信じやすい時がある。”
“得意にならないことに成功したかは、まだわからない。”
夜、リクは隣室の水差しを見た。
蓋の印は、朝リュミナが直した場所のまま。
少し斜め。
でも見やすい。
水は透明。
水差しのそばには、札が増えすぎないよう、今日は新しい札を置かなかった。
かわりに、今日だけの棚へ戻った。
百番目の余白は、まだ空いている。
低い仕切りのそばに、花粉の紙包みと白い石がある。
三日後の印の日付は、明日だった。
リクは白い石を見て、少しだけ息を吐いた。
「明日だ」
リオは頷いた。
「はい」
「忘れてなかった」
ミナが微笑む。
「石が覚えてくれていましたね」
「俺も、ちょっと覚えてた」
「はい」
リクは白い石へ触れずに言った。
「明日見て決める」
その声は、前より軽かった。
その夜、リオは新しい香りを作った。
理由が小さい朝。
寒かったから襟元を締めたアリアンヌ。
理由を聞かないと決めた直後に聞いてしまい、問いを取り下げた白盾記録院。
たまたまぴったり合ったレムリアの蓋。
雲を先に見たかった王。
成功したかまだわからない二杯目の謙虚さ。
そして、明日が来る白い石。
ラベルは、
“選べる斜めの場所に、名前を急がせない。”
その瓶は、水差しではなく、今日だけの棚と低い台のあいだに置かれた。
理由が大きくなりすぎない場所へ。
香りは残る。
たまたま合った線にも。
取り下げられた問いにも。
そして、直したことにも直さなかったことにも立派な名前をつけすぎず、今日は雲を見たかっただけ、と言えるようになった朝の窓にも。




