第百二十一話 だいたいで足りるものを、試験にしない
翌朝、リクは水差しの蓋を閉めてから、わざと手を止めた。
太い印は、少しだけずれている。
閉まっている。
水はこぼれない。
飲める。
それでよい。
そう思ったのに、指が少し動きそうになった。
ぴったり合わせたい。
昨日は直さなかった。
今日も直さなければ、昨日の学びが本物になるような気がする。
その瞬間、リクは顔をしかめた。
「これ、直さないことの試験になってる」
リオは隣で静かに頷いた。
「はい」
ミナが水差しを見て言った。
「“直さなくてよい”が、“直してはいけない”になることがあります」
セリカが腕を組む。
「学びはすぐ命令の顔をする」
リュミナが台所から厳粛に言った。
「残す練習をしていたら、残さねばならぬになり、腹が減る」
「お前はその心配が大きいな」
「切実だ」
リクは蓋をもう一度見た。
少しずれている。
閉まっている。
今日は、このまま。
ただし、試験としてではなく。
彼は木札を書いた。
“だいたいで足りるものを、試験にしない。”
その下に、
“直さなくてよい、は直してはいけないではない。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――今朝、廊下の水差しの印が少しずれていました。
――父上は直しませんでした。
――でも、直さないでいる自分を、とても意識していました。
――メリッサが言いました。
――“陛下、直さないことを試験にしないでください。”
――父上は少し笑いました。
――そして、“では、今日は一度だけ直す”と言って、少しだけ蓋を動かしました。
――閉まっていました。
――直しても、昨日が消えるわけではありませんでした。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、襟元を少し緩め、昼に少し締めました。どちらも私です。
リクは手紙を読んで、目を丸くした。
「直したんだ」
ミナが微笑む。
「はい。直しても、昨日の学びは消えません」
セリカは今日だけの棚に札を書いた。
“直さないことを試験にしない。”
リオが隣に、
“直しても、昨日が消えるわけではない。”
と置いた。
リュミナは深く頷いた。
「残した日があって、食べきる日があってよい」
「食べ物の話だと早いな」
リクが笑うと、リュミナは堂々と答えた。
「理解しやすい器だからな」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱の外側の太い位置線は、記録官たちの手を休ませていた。
しかし今朝、若い記録官は箱を閉めた後、線が少しずれているのを見て、そのままにしようとした。
だが、その手は震えていた。
審理官が尋ねた。
“閉まっていますか。”
若い記録官は答えた。
“閉まっています。”
“では、なぜ震えていますか。”
長い沈黙。
“直さない方がよい記録官だと思われたいからです。”
部屋は静かになった。
審理官は言った。
“それは支援ではなく、新しい試験です。”
その日は、若い記録官が一度だけ線を直した。
箱は閉まったままだった。
記録にはこう書かれた。
――太い線は、直さないことを評価するためのものではない。
――震える手が選べるためのもの。
レインは報告を聞いて、目を伏せた。
「選べるため」
ミナが頷いた。
「余裕は、正しい方を強制するためではなく、選べるようにするためにあります」
セリカは札を書いた。
“太い線は、直さないことを評価するためではない。”
その下に、
“震える手が選べるためのもの。”
そして、
“免罪ではない。”
リクは小さく、
“新しい試験にしない。”
と足した。
午後、レムリア商市から手紙が届いた。
料理長は、水差しの蓋が少しずれているのを見て、直さずに置いた。
すると男が言った。
“直したいなら、直していいと思います。”
料理長は驚いた。
“直すと、また正確さに戻る気がして。”
男は首を横に振った。
“戻るのと、選ぶのは違うと思います。”
料理長は蓋を少しだけ直した。
ぴったりではない。
でも、さっきより見やすくなった。
男は水を飲まなかった。
ただ、蓋を見て言った。
“今日は、そのくらいが見やすいです。”
リクはその報告を読んで、低い声で言った。
「戻るのと、選ぶのは違う」
リオは頷いた。
「はい」
今日だけの棚に札が増えた。
“戻るのと、選ぶのは違う。”
“直したいなら、直していい。”
“今日は、そのくらいが見やすい。”
リュミナが鍋の蓋を少しずらし、また少し戻した。
セリカが見る。
「何をしている」
「選んだ」
「吹きこぼれない範囲で選べ」
「見て決める」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――今朝、水差しの蓋を一度だけ直した。
――直さないことを学んだ翌日に直すのは、少し怖かった。
――また支配へ戻ったのではないかと。
――しかし、メリッサが“戻ることと、選ぶことは違います”と言った。
――私は、昨日直さなかったから、今日直すことを選べたのだと思った。
――今日、温室でエレオノーラの名を呼ばなかった。
――呼ばないことを試験にしないため、明日はわからないと書いておく。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は匙の位置を一度直した。食べやすかった。
リュミナは晴れやかな顔で頷いた。
「食べやすかった」
セリカが笑った。
「結局そこが大事だな」
「食事は正直だ」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“昨日直さなかったから、今日直すことを選べた。”
“呼ばないことを試験にしない。”
“匙の位置を一度直した。食べやすかった。”
夜、リクは隣室の水差しの蓋を見た。
朝のまま、少しずれている。
今日は直さなかった。
でも、直さなかったことを自慢する気はなかった。
明日は直すかもしれない。
それで、昨日も今日も消えない。
「選べるって、忙しいな」
リクが言うと、ミナが微笑んだ。
「はい。でも、命令されるより息ができます」
リオは頷いた。
「直しても、直さなくても、水が飲めるように」
セリカが言った。
「そこを忘れるな」
リュミナが水を一口飲み、蓋を閉めた。
印は、少しずれた。
彼女は一度見て、にやりと笑った。
「今日は直さぬ」
セリカが眉を上げる。
「試験にするなよ」
「腹が減っているからだ」
「それは理由として強いな」
その夜、リオは新しい香りを作った。
直さないことを試験にしなかった水差し。
一度直しても昨日が消えなかった王女の廊下。
震える手が選べるための太い線。
戻ることと選ぶことを分けたレムリアの蓋。
昨日直さなかったから今日直せた王。
食べやすい位置に直された二杯目の匙。
ラベルは、
“だいたいで足りるものを、試験にしない。”
その瓶は、太い印のそばに置かれた。
正面ではなく、選べる斜めの場所へ。
香りは残る。
直さなかった蓋にも。
直した蓋にも。
そして、昨日の学びを今日の命令に変えず、少しずれた線を前にして、直してもいい、直さなくてもいい、ただ水が飲めるようにと確かめた朝の手にも。




