第百十五話 隣室に控える支えにも、水を出す
翌朝、リュミナは三枚の座布のうち二枚を、台所の隅から隣室へ運んだ。
「隣室に控える支えだ」
彼女は満足そうに言った。
セリカは腕を組み、その座布を見た。
「控えるのはよいが、埃をかぶらせるな」
「布を掛ける」
「掛けすぎると使いにくい」
「すぐ取れる布にする」
「よし」
リクはそのやり取りを聞きながら、隣室を覗いた。
座布が二枚。
余った椅子が一脚。
水差し。
空の椀。
それから、小さな窓。
隣室は、いつのまにか待機の部屋になっていた。
すぐには使わない。
でも、呼ばれたら来られる。
見張らない。
でも、遠すぎない。
その場所を見て、リクは少し首を傾げた。
「ここで待ってる人、疲れない?」
ミナが顔を上げる。
「疲れますね」
「支える人も?」
「はい」
リオは窓辺の埃を指で払った。
「隣室に控える支えにも、支えが必要です」
リュミナはすぐに水差しへ新しい水を入れた。
「支える者にも水」
セリカが頷く。
「それは大事だな」
リクは木札を書いた。
“隣室に控える支えにも、水を出す。”
その下に、
“呼ばれるまで待つ人も、人。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――父上が温室で座る時、侍従たちは隣の廊下で控えています。
――昨日までは、控えている人の椅子を考えていませんでした。
――空の椀を守る椅子は置いたのに、守る人を待つ人の椅子はありませんでした。
――今朝、廊下に椅子を二脚置きました。
――でも、通路を塞ぎそうだったので、一脚は少し奥へ。
――水も置きました。
――侍従の一人が、“飲んでいいのですか”と聞きました。
――私は、“はい”と言いました。
――言わないと飲めない人もいるのだと知りました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は軽い飾りを一つ。侍従に重くないか聞かれました。
リクは手紙を読んで、少し眉を寄せた。
「飲んでいいのですか、って聞くんだ」
ミナが静かに頷いた。
「仕事中は、許可がないと休めない人もいます」
セリカの声が低くなる。
「それは制度の癖だ」
リオは今日だけの棚に札を置いた。
“言わないと飲めない人もいる。”
ミナがその隣に、
“控える人の椅子。”
と書いた。
リュミナはさらに、
“水は飾りではない。飲んでよい。”
と大きめの字で書いた。
セリカがそれを見て頷いた。
「入口にも掛けておけ」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱を扱う部屋では、補佐たちを隣室に控えさせることになった。
だが、初日、隣室の補佐たちは扉の向こうの沈黙に神経を張りすぎ、終わる頃には証言者と同じくらい疲弊していたという。
審理官はそれを見て、隣室にも記録を置いた。
――控える者は、扉を見張り続けない。
――水を飲む。
――呼ばれなかったことを、役に立たなかったことにしない。
――交代してよい。
報告を読み終えたリオは、長く息を吐いた。
「呼ばれなかったことを、役に立たなかったことにしない」
レインが静かに頷いた。
「伝令にも必要です」
「はい」
レインは間の棚に札を書いた。
“呼ばれなかったことを、役に立たなかったことにしない。”
その下に、
“扉を見張り続けない。”
セリカが足した。
“交代してよい。”
そして少し考えて、いつもの札とは別にもう一枚書いた。
“支える者の疲れを、証言者へ請求しない。”
部屋が静かになった。
ミナが小さく頷く。
「とても大切です」
支える者が疲れる。
それは本当だ。
でも、その疲れを、支えられる者へ返してはならない。
“こんなに待ったのに。”
“こんなに準備したのに。”
“こんなに心配したのに。”
それは、椀を言い訳にすることに似ていた。
午後、レムリア商市からも手紙が来た。
一脚だけ残した入口の椅子。
奥へ下げた椅子。
そのさらに奥で控える料理長。
昨日、料理長は男が来るまでずっと立って待っていたらしい。
男がそれを見て言った。
“立って待たれると、入らなきゃいけない気がする。”
料理長は慌てて座った。
しかし、座ったら今度は眠そうに見え、男は少し笑ったという。
“眠いなら寝てください。私のせいにしないで。”
サラ・ベルテは記録した。
――待つ疲れを、来た人の責任にしない。
リュミナが深く頷いた。
「料理長、学んでいる」
セリカが言う。
「お前も立って鍋を待ちすぎるな」
「私は鍋に呼ばれている」
「幻聴ではないのか」
「香りだ」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“立って待たれると、入らなきゃいけない気がする。”
その下に、
“待つ疲れを、来た人の責任にしない。”
ミナがもう一枚足した。
“眠いなら寝る。相手のせいにしない。”
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――温室の隣の廊下に、侍従たちの椅子と水を置いた。
――一人が“飲んでよいのですか”と聞いた。
――私は驚いた。
――そして、自分がこれまで、飲んでよいと言わずに待たせていたことに気づいた。
――控える者の疲れを、私の沈黙の証明にしてはいけない。
――今日、温室にいた時間を少し短くした。
――私が疲れたからではなく、控える者が交代する時間だったからだ。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。メリッサも水を飲んだ。私はそれを命令ではなく確認として受け取った。
リクは手紙を読み、深く頷いた。
「控える人が交代するから、王が短くする」
セリカが言った。
「よい変化だ」
ミナも頷く。
「中心にいる人の時間だけで、周りを決めないということですね」
リュミナは追伸を見て、妙に感動していた。
「メリッサも水を飲んだ」
「そこ?」
「大事だ。出す者も飲む」
今日だけの棚に札が増えた。
“控える者の疲れを、沈黙の証明にしない。”
“中心にいる人の時間だけで、周りを決めない。”
“出す者も飲む。”
夜、リクは隣室へ行った。
座布が二枚。
椅子が一脚。
水差し。
空の椀。
窓。
朝より少し部屋らしくなっている。
けれど、誰かを押し込める部屋ではない。
呼ばれたら行ける。
呼ばれなければ、水を飲み、座り、窓を見る。
「隣室って、ただ待つ場所じゃないんだな」
リオが頷いた。
「はい。控える人が人でいられる場所です」
「見張り続けない」
「はい」
「呼ばれなくても、役に立ってないわけじゃない」
「はい」
リクは水差しの横に札を掛けた。
“飲んでよい。”
その下に、リュミナが勝手に足した。
“ただし鍋の分は残す。”
セリカがすぐに消そうとして、リクが笑いながら止めた。
「日々の棚に移そう」
“ただし鍋の分は残す。”は日々の棚へ移された。
リュミナは満足した。
その夜、リオは新しい香りを作った。
隣室の水差し。
廊下に置かれた侍従の椅子。
呼ばれなかったことを役立たなかったことにしない補佐たち。
立って待たれて入りにくくなったレムリアの入口。
待つ疲れを相手の責任にしない料理長。
交代の時間に合わせて温室を出た王。
水を飲んだメリッサ。
ラベルは、
“隣室に控える支えにも、水を出す。”
その瓶は隣室の窓辺に置かれた。
呼ばれた時に邪魔にならず、忘れられない場所へ。
香りは残る。
控える椅子にも。
飲んでよいと言われた水にも。
そして、支える者が自分の疲れを相手の罪にしないよう、扉から目を離して一口飲んだ、隣室の静かな喉にも。




