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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第百十六話 飲んでよい水は、注ぎ足してよい

翌朝、隣室の水差しは半分ほど空になっていた。


誰が飲んだのか、札はない。


リュミナかもしれない。


ミナかもしれない。


夜中に記録を整理していたリオかもしれない。


セリカが通りがかって一口飲んだのかもしれない。


リクは水差しを見て、少し首を傾げた。


「これ、誰が飲んだか書く?」


ミナは隣室の椅子に手を置き、静かに答えた。


「必要な時もあります。でも、今日は書かなくてもよいかもしれません」


「なんで?」


「“飲んでよい”水だからです」


リオが頷いた。


「飲んだ人を毎回記録すると、飲みにくくなることがあります」


セリカが言った。


「ただし、なくなったら注ぎ足す」


リュミナが台所から顔を出す。


「ただし鍋の分は残す」


「それは日々の棚に置いた」


「重要だから二度言った」


リクは水差しを持ち上げた。


半分空。


でも、空ではない。


飲まれた水。


残った水。


注ぎ足せる水。


彼は井戸へ行き、新しい水を汲んできた。


水差しへゆっくり注ぐ。


古い水と新しい水が混ざる。


リクはそれをじっと見た。


「混ざるんだな」


リオが答える。


「はい」


「これは、混ざってもいいやつ?」


ミナが微笑む。


「はい。飲むための水ですから」


セリカが続ける。


「ただ、いつの水かわからなくなると困る時は替える。今日は注ぎ足しでいい」


リクは札を書いた。


“飲んでよい水は、注ぎ足してよい。”


その下に、


“飲んだ人を、毎回記録しない水。”


朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。


――リクへ。


――廊下の水差しが、今朝少し減っていました。


――侍従の誰かが飲んだのだと思います。


――私は、誰が飲んだのか尋ねそうになりました。


――でも、昨日“飲んでよい”と言った水です。


――飲んだ人を探すと、飲みにくくなると思いました。


――水を注ぎ足しました。


――父上が“記録しなくてよいのか”と聞きました。


――メリッサが“減ったことは見ました。誰が飲んだかは見張りません”と言いました。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、今日は喉元を少し緩めました。水が飲みやすいように。


リクは手紙を読んで、隣室の水差しを見た。


「姉さんも注ぎ足した」


ミナが微笑む。


「はい」


セリカが今日だけの棚に札を置いた。


“減ったことは見る。誰が飲んだかは見張らない。”


リオが隣に、


“飲みやすいように、喉元を緩める。”


と書いた。


リュミナは感心した顔で頷いた。


「服も水を助ける」


セリカが言う。


「お前も食べやすいように服を選んでいるだろう」


「当然だ」


「誇るな」


昼前、白盾記録院から報告が届いた。


隣室に控える補佐たちの水差しも、半分空になっていた。


担当官が、誰が飲んだか記録しようとした。


すると、年長の記録官が止めた。


“水を飲むことを証言にしない。”


補佐たちは、呼ばれるかもしれない緊張の中にいる。


扉を見張り続けない。


水を飲む。


交代してよい。


そう決めたばかりだった。


飲むたびに名前を書かせれば、水はまた命令になる。


ただし、担当官は水差しの横に小さな札を置いた。


――減っていたら注ぎ足す。濁っていたら替える。


レインはそれを聞き、深く頷いた。


「濁っていたら替える」


セリカも頷く。


「注ぎ足しでいい日と、替える日がある」


ミナが言った。


「休み方も同じですね。少し足せば続けられる日と、一度全部替えなければならない日があります」


リオは間の棚と日々の棚の境に札を書いた。


“水を飲むことを証言にしない。”


その下に、


“減っていたら注ぎ足す。濁っていたら替える。”


リクはもう一枚足した。


“休みも、注ぎ足しの日と替える日がある。”


午後、レムリア商市から手紙が来た。


入口の椅子の奥、料理長が控える場所に置いた水差しが、昨日より減っていた。


料理長は照れくさそうに言ったという。


“私が飲みました。”


サラ・ベルテは答えた。


“言わなくてもよい水です。”


料理長は少し困った。


“でも、言わないと盗んだみたいな気がします。”


その場にいた男が言った。


“飲んでいいと言われても、信じるのに時間がいる。”


サラは記録した。


――飲んでよい水を信じるにも、時間がいる。


リュミナが真剣に頷いた。


「料理長、わかる」


リクが尋ねる。


「リュミナも言われないと食べにくい?」


リュミナは少し考えた。


「私は比較的、食べやすい」


「だろうな」


「だが、“これはあなたの分”と言われると、よりうれしい」


ミナは微笑み、札を書いた。


“飲んでよい水を信じるにも、時間がいる。”


セリカが隣に、


“言いたい人は、言ってもよい。言わなくてもよい。”


と足した。


夕方、国王から手紙が届いた。


――リクへ。アリアンヌへ。


――廊下の水差しが減っていた。


――私は誰が飲んだのか尋ねそうになった。


――しかし、それは飲んでよい水だった。


――減ったことは見た。


――誰が飲んだかは見張らなかった。


――ただ、水を注ぎ足した。


――不思議なことに、誰かが飲んだとわかる水差しは、少し安心させる。


――控えていた者が、喉を乾かしたままではなかったということだから。


――今日は、スープを飲んだ人。


――追伸。二杯目は半分。メリッサが水を飲んだ後、私も少し飲んだ。競争ではない。


リュミナが深く頷いた。


「競争ではない」


セリカが笑う。


「水まで競争にするな」


「竜は水もよく飲む」


「張り合うな」


リクは今日だけの棚に札を書いた。


“誰かが飲んだ水差しは、少し安心する。”


“喉を乾かしたままではなかった。”


“競争ではない。”


夜、リクは隣室の水差しを見た。


朝に注ぎ足した水は、また少し減っていた。


今度は、誰が飲んだか知っている。


リク自身が、夕方に一口飲んだからだ。


でも、札には書かなかった。


飲んでよい水。


見張られない水。


減ったら注ぎ足す水。


濁ったら替える水。


「水って、混ざってもいい時あるんだな」


リクが言うと、リオは頷いた。


「はい」


「砂とか花粉は混ぜないのに」


「ものによって違います」


ミナが言った。


「役目によっても違います。分けることで守るものと、混ざることで働くものがあります」


リュミナが言う。


「鍋だな」


セリカが頷く。


「今回は本当に鍋だな」


その夜、リオは新しい香りを作った。


半分減った隣室の水差し。


飲んだ人を見張らず注ぎ足した王女。


水を飲むことを証言にしなかった白盾記録院。


飲んでよい水を信じるにも時間がいる料理長。


喉を乾かしたままではなかったことに安心した王。


競争ではなかった二杯目の後の水。


ラベルは、


“飲んでよい水は、注ぎ足してよい。”


その瓶は隣室の水差しのそばに置かれた。


水を飲む邪魔にならない距離で。


香りは残る。


誰が飲んだか見張られなかった水にも。


注ぎ足された透明な揺れにも。


そして、支える者が喉の渇きを隠さず、しかし飲むたびに証言させられないよう、半分空いた水差しを静かに満たした朝の手にも。

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