第百十三話 支える紙を替える時、包みを責めない
翌朝、花粉の紙包みの下に敷かれた薄紙が、少し波打っていた。
夜露の湿気を吸ったのだろう。
紙包みそのものは開いていない。中の花粉もこぼれていない。白い石も、印ではない花弁も、百番目の余白も、それぞれの場所にある。
けれど、薄紙だけが少し頼りなくなっていた。
リクはそれを見て、昨日のレムリアの言葉を思い出した。
“本人の位置は変えない。支える紙は替える。”
「これ、替える?」
リオはしゃがみ込み、紙の端を見た。
「替えた方がよさそうです」
「紙包みは動かさない?」
ミナが頷く。
「できるだけ、そのまま支えを替えましょう」
リュミナが台所から真剣に言った。
「皿を持ち上げずに布を替えるのは難しい」
セリカが言う。
「だから慎重にやる」
リクは手を洗い、息を整えた。
リオが紙包みの端をそっと持ち上げる。
ミナが湿った薄紙を抜く。
セリカが乾いた新しい紙を差し込む。
リュミナはなぜか鍋の火を弱めていた。
「関係ある?」
リクが聞くと、リュミナは厳粛に答えた。
「家全体の火加減だ」
「たぶん関係あるな」
作業はすぐ終わった。
花粉の紙包みの位置は、ほとんど変わっていない。
支える紙だけが、新しく乾いたものになった。
リクは深く息を吐いた。
「包み、悪くないもんな」
ミナが微笑む。
「はい。支えが湿っただけです」
リクは木札を書いた。
“支える紙を替える時、包みを責めない。”
その下に、
“位置を変えずに、支えを替える日。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――王妃の机に敷いていた布の端が、今朝少し湿っていました。
――窓辺に近かったからだと思います。
――母上への手紙は濡れていません。
――私は一瞬、手紙を動かそうとしました。
――でも、メリッサが“濡れたのは布です”と言いました。
――布を替えました。
――手紙はそのままです。
――手紙に謝りました。
――でも、手紙を責めませんでした。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、肩の飾りが重かったので外しました。私が弱いのではなく、飾りが重い日です。
リクはその一文を読んで、顔を上げた。
「私が弱いんじゃなくて、飾りが重い日」
ミナが静かに頷く。
「大切な言葉ですね」
セリカの目が少し鋭くなった。
「人を責める前に、重すぎる飾りを見ろということだな」
リオは今日だけの棚に札を置いた。
“濡れたのは布。”
ミナがその隣に、
“私が弱いのではなく、飾りが重い日。”
と書いた。
リュミナが鍋を見つめて言う。
「腹が弱いのではなく、量が多い日もある」
セリカが即座に返す。
「お前の場合は量を減らせ」
「減らす練習をしている」
「昨日も聞いた」
「継続とは、見直しながら残すこと」
「都合よく使うな」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱の中の空欄の写しは、今日も開かれた。
しかし、机の上に敷かれていた記録布が少し滑り、紙が傾きかけたという。
記録官がすぐに紙を押さえようとしたが、審理官はまず布を見た。
紙は悪くない。
箱も悪くない。
ヴォルクが触れたわけでもない。
布が滑った。
審理官は記録した。
“紙が傾いた。原因は下の布の滑り。紙を責めない。”
ヴォルクはそれを見て、低く言った。
“私は、傾いたものを見ると、誰かの意志を探す。”
審理官が問う。
“今回は意志がありましたか。”
ヴォルクは答えた。
“なかった。布が滑った。”
長い沈黙。
“意志がある時と、布が滑った時を、同じにしてはいけない。”
レインは報告を聞き、間の棚へ向かった。
“原因は下の布の滑り。紙を責めない。”
その下に、
“意志がある時と、布が滑った時を同じにしない。”
セリカがいつものように足した。
“免罪ではない。”
それから少し考え、もう一枚書いた。
“意志があった時は、意志を見る。”
リクはその札を見て頷いた。
責めないことは、責任を消すことではない。
布が滑った時には布を見る。
誰かが押した時には、押した手を見る。
混ぜない。
午後、レムリア商市からも同じような手紙が来た。
砂箱の仕切りを支える紙が湿気で弱くなり、料理長がそれを見つけた。
男は来ていなかった。
サラ・ベルテは、砂包みの位置を変えずに支える紙だけ替えた。
その後で、入口にこう札を掛けたという。
――支えを替えました。中身は動かしていません。
夕方、男が来て、その札を見た。
彼はしばらく黙り、
“先に書いてあると、聞くのが怖くなくなる”
と言った。
リクはそれを聞いて、すぐ札を書いた。
“支えを替えました。中身は動かしていません。”
その下に、
“先に書いてあると、聞くのが怖くなくなる。”
ミナが微笑む。
「説明は、許可の代わりにはなりません。でも、不安を軽くすることがあります」
セリカが頷く。
「隠さないための札だな」
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――王妃の机の布が湿っていた。
――アリアンヌは手紙ではなく布を替えた。
――私は、湿りを見てすぐ全体を片づけようとした。
――しかし、濡れたのは布だった。
――王国も同じかもしれない。
――一部の支えが湿った時、そこにいる人を弱いと言って退けてきた。
――重い飾りを持たせておきながら、倒れた者を責めた。
――今日は、少しそれを考えた。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は椀ではなく椅子が少し低かった。座布を足した。
リュミナが手紙を読んで、深く頷いた。
「椅子が低い日」
セリカが言った。
「いい気づきだ」
「食べる者を責める前に、椅子を見る」
「お前は椅子を壊すなよ」
「竜用ではない椅子が弱いのだ」
「そういうところだぞ」
今日だけの棚に札が増えた。
“重い飾りを持たせておきながら、倒れた者を責めない。”
“椀ではなく、椅子が低い日。”
“座布を足す。”
夜、リクは低い台の花粉の紙包みをもう一度見た。
支える紙は新しい。
包みは同じ場所にある。
白い石も、花弁も、余白も、仕切りも、それぞれに落ち着いている。
「支えが悪くなる日ってあるんだな」
リクが言うと、リオは頷いた。
「はい」
「中身が駄目になったんじゃなくて」
「はい」
「人も?」
ミナが答えた。
「はい。人が弱いのではなく、支えが足りない日があります。飾りが重い日も、椅子が低い日もあります」
リクはしばらく黙り、最後に小さく言った。
「じゃあ、先に見る」
セリカが頷いた。
「責める前に、支えを見る」
その夜、リオは新しい香りを作った。
湿った薄紙を替えた朝。
濡れたのは布だと見分けた王妃の机。
重い飾りを外したアリアンヌ。
滑った記録布を見た白盾記録院。
支えを替えたと先に知らせたレムリアの砂箱。
椅子が低かった二杯目。
座布を足した王。
ラベルは、
“支える紙を替える時、包みを責めない。”
その瓶は、新しい薄紙のそばに置かれた。
紙を押さえつけない距離で。
香りは残る。
湿って替えられた布にも。
重すぎた飾りにも。
そして、中身を責める前に、下の紙は湿っていないか、椅子は低すぎないか、飾りは重すぎないかを見ようとした朝の手にも。




