第百十二話 このくらい、は明日変わってもいい
翌朝、リクは低い台の前で、昨日より少し長く黙っていた。
白い石。
花粉の紙包み。
印ではない花弁。
百番目の余白。
低く削られた仕切り。
昨日、糸で測り、最後に自分で少し動かした位置。
“今日は、このくらい。”
その言葉は、昨夜にはとてもよく見えた。
けれど朝になると、少しだけ違って見えた。
花弁が乾いて、昨日より軽くなっている。
白い石の横に、夜露の粒が一つついている。
紙包みは変わらないようで、紙の端がほんの少し反っている。
風の通り方も違う。
リクは小さく言った。
「昨日のこのくらい、今日だとちょっと違う」
リオは頷いた。
「はい」
「変えていい?」
ミナが微笑む。
「昨日、本人が決めた“このくらい”でも、今日は変わってよいと思います」
セリカが続ける。
「変えないことを誠実と呼びすぎるな」
リュミナが鍋の前で大きく頷いた。
「昨日の塩加減を今日の鍋にそのまま入れると、濃すぎる日がある」
セリカが少し笑う。
「お前はいつも濃い」
「今日は薄めにする予定だ」
「予定で終わるなよ」
リクは仕切りをほんの少しだけ花弁から離した。
昨日より、わずかに広い。
遠ざけすぎてはいない。
ただ、今日の乾いた花弁が崩れないくらい。
札を書いた。
“このくらい、は明日変わってもいい。”
その下に、
“昨日の位置を、今日の誠実にしすぎない。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――昨日、銀の釦を少し近づけました。
――見張りではなく、机の上のものに見えるように。
――でも今朝見ると、手紙の端に近すぎる気がしました。
――風が吹いたら、手紙が釦に触れるかもしれません。
――昨日はよかった距離です。
――でも、今日は少しだけ離しました。
――父上は“昨日決めたのに”と言いかけて、止まりました。
――メリッサが“昨日決めたから、今日見直せるのです”と言いました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、昨日直した釦を今日はまた少し緩めました。苦しかったからです。
リクは手紙を読み、深く頷いた。
「昨日決めたから、今日見直せる」
ミナが言った。
「とてもよい言葉です」
セリカは今日だけの棚に札を置いた。
“昨日決めたから、今日見直せる。”
リオが続けて書いた。
“苦しかったら、少し緩める。”
リュミナが粥を一口食べ、真剣に言った。
「今日は本当に薄い」
セリカが目を細める。
「自分で言うことか」
「昨日の濃さを、今日の誠実にしなかった」
「……今日の札をすぐ使うな」
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱。
空欄の写し。
罪状の要約。
第三歩兵隊の名簿。
昨日、それぞれの距離を測った。
今日は、審理官がそれを同じ位置に置こうとした時、ヴォルクが言った。
“昨日の距離を、そのまま今日の距離にしないでください。”
審理官が問う。
“なぜですか。”
ヴォルクは長く黙り、
“昨日は、私が紙を混ぜたいと思った日でした。今日は、紙から逃げたいと思っています。”
さらに沈黙。
“混ぜたい日と、逃げたい日で、必要な距離は違います。”
戻り香の家でその報告が読まれた時、レインはゆっくり息を吐いた。
「混ぜたい日と、逃げたい日」
セリカが低く言う。
「どちらも危険だ」
ミナが頷いた。
「近づきすぎる危険と、遠ざかりすぎる危険ですね」
レインは間の棚に札を書いた。
“混ぜたい日と、逃げたい日で、必要な距離は違う。”
その下に、
“昨日の距離を、そのまま今日の距離にしない。”
セリカが足した。
“免罪ではない。”
リクは考えながら、もう一枚置いた。
“遠すぎても、逃げになる。”
午後、レムリア商市から手紙が来た。
昨日、“今日は、このくらい”と言って砂包みの位置を決めた男は、今日は来なかった。
サラ・ベルテは砂箱を開け、昨日の位置をそのままにするか迷った。
本人が来ていない。
勝手に動かすべきではない。
けれど、箱の紙仕切りが少し湿気を含み、砂包みの端に触れそうになっていた。
サラは料理長と相談し、砂包みそのものは動かさず、仕切りの湿った紙だけを替えた。
そして札に書いた。
――本人の位置は変えない。支える紙は替える。
リクはその文を読み上げて、すぐに頷いた。
「これ、すごい」
ミナが微笑む。
「はい。本人の決めた距離を尊重しながら、壊れないように支えを変えています」
リオは今日だけの棚に札を置いた。
“本人の位置は変えない。支える紙は替える。”
その隣に、
“動かす前に、何を動かすのか見る。”
リュミナが言った。
「皿を動かさず、下の布を替える日」
セリカが頷く。
「あるな」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――昨日近づけた釦を、今日は少し離した。
――私は“昨日決めたのに”と言いかけた。
――しかし、昨日決めたことは、今日を縛る鎖ではないのだろう。
――昨日の判断があったから、今日の違いが見えた。
――私は長く、継続を同じ形の維持だと思ってきた。
――しかし、継続とは、見直しながら残すことかもしれない。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。昨日より少し早く匙を置いた。今日はそれでよかった。
リクは最後まで読んで、今日だけの棚に札を書いた。
“昨日の判断があったから、今日の違いが見えた。”
“継続とは、見直しながら残すこと。”
“今日はそれでよかった。”
リュミナは追伸を見て満足げに言った。
「匙を置く早さも日によって違う」
セリカが笑う。
「二杯目、とうとう時間の記録になったな」
「椀は時間を持つ」
「それはもう否定できない」
夜、リクは低い台の前にもう一度座った。
朝に動かした仕切りの位置は、まだよさそうに見えた。
けれど、明日はまた違うかもしれない。
それでいい。
昨日のこのくらいを、今日も明日も守り続けることが誠実なのではない。
毎日見て、必要なら変える。
変えたら、変えたと記録する。
変えなかったら、見て変えなかったと記録する。
リクは小さく笑った。
「棚って、ほんと終わらないな」
リオも微笑んだ。
「はい」
「でも、終わらないから疲れるんじゃなくて、終わらないから少し楽な日もある」
ミナが頷いた。
「今日で全部決めなくてよいからですね」
その夜、リオは新しい香りを作った。
昨日より少し広げた仕切り。
今日の釦の距離を決め直したアリアンヌ。
混ぜたい日と逃げたい日で距離が違うと認めたヴォルク。
本人の位置を変えず、支える紙を替えたレムリアの砂箱。
継続とは見直しながら残すことだと書いた王。
昨日より少し早く置かれた二杯目の匙。
ラベルは、
“このくらい、は明日変わってもいい。”
その瓶は、低い台の近くに置かれた。
動かせる場所へ。
香りは残る。
昨日の距離にも。
今日の見直しにも。
そして、変わらないことだけを誠実と呼ばず、変えたことも、変えなかったことも、明日また見る約束として残した夜の小さな仕切りにも。




