第百十一話 近づいただけの日にも、距離を測る
翌朝、リクは低い台の前に糸を持ってきた。
昨日倒れた仕切りは、少し位置を変えて立っている。
花粉の紙包み。
白い石。
印ではない花弁。
百番目の余白。
それぞれの間には、低い木片があり、風が通るだけの隙間がある。
けれど、リクはまだ少し気になっていた。
倒れてはいない。
混ざってもいない。
でも、近い。
「測るの?」
ミナが尋ねると、リクは糸を伸ばしながら頷いた。
「測りすぎ?」
リオは少し考えた。
「測ることで安心できる日もあります」
セリカが続ける。
「だが、数字が関係を決めるわけではない」
リュミナが鍋の前から言った。
「塩ひとつまみも、指の大きさで変わる」
「お前はひとつまみが大きい」
「竜の指だからな」
リクは糸を、石と花弁の間に置いた。
近い。
でも触れていない。
紙包みと白い石の間。
近い。
でも、石は紙を押していない。
百番目の余白と風の跡。
近い。
でも、余白はまだ余白だ。
リクは札を書いた。
“近づいただけの日にも、距離を測る。”
その下に、少し迷って、
“測っても、数字だけで決めない。”
と足した。
昼前、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――王妃の机の布の線を、今日は少し測りました。
――銀の釦と手紙の距離。
――葉と布の距離。
――机の傷と母上への手紙の距離。
――測ると少し安心しました。
――でも、測ったあとで、メリッサが言いました。
――“近いから危ない日も、近いから支えになる日もあります。”
――私は、ものさしを閉じました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、裾の長さを測られました。私は少し退屈でした。
リクは手紙を読んで、少し笑った。
「裾の長さ、退屈なんだ」
ミナも微笑む。
「測られる側には、測る側と別の時間があります」
セリカが頷いた。
「測定は中立に見えて、相手の時間を使う」
リオは今日だけの棚に札を置いた。
“近いから危ない日も、近いから支えになる日もある。”
ミナがその隣に、
“測られる側の時間も見る。”
と書いた。
リュミナは厳粛に言った。
「肉の重さを測る時も、食べる者は待っている」
セリカが言う。
「お前は待て」
午後、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱の机上で、審理官は今日は紙の距離をあらかじめ測ったという。
空欄の写し。
ヴォルクの罪状。
第三歩兵隊の名簿。
三つは同じ机に置かれた。
しかし、それぞれ少し離して。
ヴォルクはそれを見て言った。
“測って離せば安全だと思いたくなる。”
審理官が問うた。
“安全ではありませんか。”
ヴォルクは答えた。
“安全に近づくことはある。しかし、私が混ぜたいと思えば、距離があっても混ぜる。”
長い沈黙。
“だから、距離と一緒に、自分を見る必要がある。”
レインはその報告を聞き、静かに椀を置いた。
「距離と一緒に、自分を見る」
セリカが低く頷く。
「よい。逃げるな」
ミナが言った。
「制度の距離と、内側の衝動は別に記録しなければなりません」
レインは間の棚に札を書いた。
“測って離せば安全だと思いたくなる。”
その下に、
“距離と一緒に、自分を見る。”
セリカが足した。
“免罪ではない。”
リクは小さく、
“離れていても、混ぜたい手がある。”
と書いた。
夕方、レムリア商市から手紙が来た。
砂箱の仕切りは、今日は倒れていない。
だが、サラ・ベルテは、入口の砂と誰のものかわからない砂の距離を測ろうとして、途中でやめたという。
男が言ったのだ。
“近いか遠いかは、私が今日見て決めたい。”
サラはものさしを置いた。
男は箱を見て、少しだけ紙包みの位置を動かした。
遠くではない。
触れない程度。
そして言った。
“今日は、このくらい。”
リクはその言葉を聞いて、すぐに札を書いた。
“今日は、このくらい。”
ミナが頷く。
「本人の“このくらい”は、数字より大切なことがあります」
リオが隣に書いた。
“ものさしを置く日。”
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――王妃の机で、釦と手紙の距離を測った。
――測ると安心した。
――だが、安心しすぎると、測ったことを正しさと呼びたくなる。
――メリッサが“陛下、近さは数値だけではありません”と言った。
――今日は、釦を少し近づけた。
――三日後の印が、手紙を監視しているように見えたからだ。
――近づけたら、見張りではなく、机の上のものに見えた。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。匙と椀の距離を測ろうとして、やめた。
リュミナが残念そうに言った。
「匙と椀の距離」
セリカが睨む。
「測るな」
「少し興味があった」
「料理が冷める」
リクは笑いながら札を書いた。
“測ったことを、正しさと呼びすぎない。”
“近さは数値だけではない。”
“匙と椀の距離を測ろうとして、やめた。”
夜、リクは低い台の前にもう一度しゃがんだ。
糸は片づけた。
測った距離は覚えていない。
でも、見たことは残っている。
「今日はこのくらい」
彼は小さく言って、仕切りを少しだけ動かした。
ほんの少し。
風が通り、花弁は触れない。
石は紙包みを押さない。
余白はまだ空いている。
リオはその様子を見て、新しい香りを作った。
糸で測った朝。
ものさしを閉じた王女。
距離と一緒に自分を見るヴォルク。
本人が決めた“今日は、このくらい”。
近さは数値だけではないと知った王。
測られなかった匙と椀。
ラベルは、
“近づいただけの日にも、距離を測る。”
その瓶は、糸の代わりに低い台のそばへ置かれた。
測るためではなく、測りすぎないために。
香りは残る。
測った距離にも。
測るのをやめた手にも。
そして、近いから危ないのか、近いから支えになるのかを、数字だけで決めずに今日の目で確かめた朝の糸にも。




