第百十話 倒れた仕切りを、責める前に見る
翌朝、低い台の仕切りが倒れていた。
小さな木片の一つが、夜の風か、誰かの袖か、あるいは庭を横切った猫の尻尾かで、横になっている。
リクはそれを見つけて、思わず声を上げた。
「あ」
リオも、ミナも、セリカも、リュミナも集まってきた。
百番目の余白。
花粉の紙包み。
白い石。
印ではない花弁。
風の跡。
それらの間に置かれていた仕切りの一つが倒れ、花弁の薄紙に少し触れていた。
けれど、紙包みは開いていない。
白い石も動いていない。
花弁も、薄紙の上にある。
混ざってはいなかった。
リクはほっと息を吐いた。
「倒れてる。でも、混ざってない」
ミナが頷いた。
「はい」
セリカが静かに言った。
「まず、それを見る」
リュミナが腕を組む。
「誰が倒したかより先に、何が起きたかを見る」
リクは少し驚いてリュミナを見た。
「犯人探ししないの?」
「猫かもしれぬ。風かもしれぬ。私の袖かもしれぬ」
セリカが眉を上げる。
「お前かもしれないのか」
「鍋へ急いだ時、少し通った」
「先に言え」
「今言った」
リクは笑いそうになったが、棚を見て真面目な顔に戻した。
責める前に見る。
倒れた仕切り。
混ざっていない砂。
倒れたことを言う。
昨日レムリアから届いた札が、もう戻り香の家で必要になっていた。
リクは木札を書いた。
“倒れた仕切りを、責める前に見る。”
その下に、
“混ざっていない。少し触れている。”
セリカが頷く。
「正確だ」
ミナは倒れた仕切りを立て直す前に、少しだけ位置を変えた。
「ここだと通る人の袖が触れやすいですね」
「じゃあ、仕切りが悪い?」
リクが尋ねる。
ミナは首を横に振った。
「悪い、ではなく、置き方を変えます」
リオが小さく笑った。
「仕切りを責めても、仕切りは困りますから」
リュミナが真剣に頷いた。
「木片に反省文を書かせても意味はない」
セリカが言う。
「お前には反省文を書かせることがあるぞ」
「私は木片ではない」
「知っている」
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――王妃の机の布の線が、今朝少しずれていました。
――銀の釦には触れていません。
――葉にも触れていません。
――ただ、線が曲がっていました。
――父上が最初に“誰が触った”と言いかけました。
――途中で止まりました。
――そして、“まず見る”と言いました。
――メリッサが笑いました。
――線は、窓の風で動いたようです。
――私たちは線を少し重い布へ替えました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、裾が少し曲がっています。まず見ました。歩くのに支障はありません。
リクは手紙を読んで、にやりとした。
「父上、途中で止まったんだ」
セリカが頷く。
「よい止まり方だ」
ミナが微笑む。
「言いかけて止まることも、記録ですね」
今日だけの棚に札が置かれた。
“誰が触った、と言いかけて止まる。”
“まず見る。”
“歩くのに支障はない曲がり。”
リュミナが粥をよそいながら言った。
「裾の曲がりと転倒の危険は別だ」
「そこは大事だな」
セリカが答えた。
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱の机上で、今日は別のことが起きた。
ヴォルクが空欄の写しを見ている時、罪状の要約を置いた紙が、窓から入った風で少し動いた。
空欄の写しへ近づいた。
記録官が慌てて押さえようとしたが、審理官が止めた。
まず、どこまで動いたかを見た。
罪状の紙は、空欄の写しに触れていなかった。
近づいただけだった。
審理官は記録した。
“罪状の紙が、空欄の写しへ近づいた。触れてはいない。”
それから紙の位置を戻した。
ヴォルクはそれを見て、低く言った。
“近づいただけで、混ざった気がした。”
審理官が問う。
“混ざりましたか。”
ヴォルクは答えた。
“混ざっていない。”
さらに沈黙。
“だが、混ぜたい私がいることはわかった。”
レインは報告を聞いて、深く眉を寄せた。
「混ぜたい私がいる」
セリカの声は低かった。
「それを隠すな」
ミナが言う。
「危険を知ることは、危険を実行することではありません」
レインは間の棚に札を書いた。
“近づいた。触れてはいない。”
その下に、
“混ざっていない。”
さらに、
“混ぜたい私がいることはわかった。”
セリカがいつもの札を足した。
“免罪ではない。”
リクは、少し考えてもう一枚置いた。
“気がしたことと、起きたことを分ける。”
午後、レムリア商市からも手紙が届いた。
砂箱の仕切りは、今日は倒れていなかった。
しかし、男が来て箱を見たいと言った。
サラ・ベルテは尋ねた。
“どちらの砂を見ますか。”
男は答えた。
“私のかもしれない方。”
サラはその言い方を記録した。
私の砂、ではない。
私のかもしれない方。
彼は紙包みを見て、しばらく黙った。
そして言った。
“やっぱり、私のものかどうかわからない。でも、入口に立ったことは覚えている。”
サラは尋ねた。
“箱に戻しますか。”
男は頷いた。
“戻してください。今日は捨てないで。”
リクはその報告を聞き、小さく息を吐いた。
「私のかもしれない方」
ミナが頷く。
「とても大切な言い方です」
リオは札を書いた。
“私の砂、ではなく、私のかもしれない方。”
その隣に、
“わからない。でも、入口に立ったことは覚えている。”
リュミナが言う。
「記憶にも“かもしれない”がある」
セリカが頷く。
「確定できないものを確定の皿に盛るな」
「皿の例えを取られた」
「お前の影響だ」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――王妃の机の布の線が少しずれていた。
――私は“誰が触った”と言いかけた。
――言いかけて、止まった。
――まず見た。
――触れたものはなかった。
――線が曲がっていただけだった。
――私は、乱れを見ると責任者を探す癖がある。
――責任が必要な時もある。
――しかし、責任者探しが、見ることを邪魔する時もある。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目の匙を落とした。誰のせいでもない。私が落とした。拾って替えた。
リュミナが厳粛に頷いた。
「拾って替えた。正しい」
セリカが笑う。
「落とした匙を戻さなかった点を評価する日が来たな」
「衛生は学んだ」
「本当に成長したな」
リクは今日だけの棚に札を書いた。
“責任者探しが、見ることを邪魔する時がある。”
“誰のせいでもない。私が落とした。”
“拾って替えた。”
最後の札は日々の棚へ置かれた。
夜、リクは倒れていた仕切りをもう一度見た。
今は少し位置を変えて立っている。
通る袖が触れにくい場所へ。
でも、見える。
風も通る。
「リュミナの袖だったかもしれないけど」
リクが言うと、リュミナは重々しく頷いた。
「かもしれない」
「かもしれないまま?」
セリカが言った。
「被害が大きければ調べる。今回は混ざっていない。置き方を直した。それでよい」
ミナが頷く。
「誰かを責めるより、次に倒れにくくすることが先の日です」
リクは少し考え、札を足した。
“次に倒れにくくする。”
その夜、リオは新しい香りを作った。
倒れていたが混ざっていなかった仕切り。
誰が触ったと言いかけて止まった王女の机。
近づいたが触れていない罪状の紙。
混ぜたい私がいると認めたヴォルク。
私のかもしれない砂を見たレムリアの男。
責任者探しが見ることを邪魔すると書いた王。
落として替えられた二杯目の匙。
ラベルは、
“倒れた仕切りを、責める前に見る。”
その瓶は、低い仕切りのそばに置かれた。
立て直された位置が見えるように。
香りは残る。
倒れた木片にも。
言いかけて止まった問いにも。
そして、誰のせいかを急ぐ手を一度だけ止め、混ざったのか、触れたのか、ただ近づいただけなのかを見ようとした朝の目にも。




