第百八話 そばにあるだけで、同じものにしない
翌朝、リクは白い石の端に寄りかかっていた花弁を見た。
昨日より乾いている。
石は石のまま、花弁は花弁のまま、紙包みは紙包みのまま、低い台の上にある。
近くにある。
けれど、一つにはなっていない。
リクはしゃがみ込み、しばらくそれを眺めた。
「これ、花弁も三日後の印になっちゃう?」
リオは首を横に振った。
「しなくてよいと思います」
「でも、石のそばにある」
「そばにあることと、同じ役目になることは違います」
ミナが頷く。
「花弁は、夜に来た花弁です。印ではありません」
リュミナが台所から言った。
「肉の隣にある豆は、肉ではない」
セリカが即座に返す。
「当たり前だ」
「しかし、皿の上では混ざる」
「混ざっても豆は豆だ」
「重要な確認だ」
リクは笑って、花弁をそっと紙包みの横から少しだけ離した。
捨てるのではない。
印から遠ざけるだけ。
小さな薄紙の上に移し、低い台の端へ置いた。
札にはこう書いた。
“石のそばの花弁は、印ではない。”
そしてもう一枚。
“そばにあるだけで、同じものにしない。”
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――銀の釦のそばに落ちていた葉を、今日は少し離しました。
――釦は三日後の印です。
――葉は風の跡です。
――同じ机の上にあるからといって、同じ役目にしてはいけないと思いました。
――父上が“王妃の机の上にあるものは、すべて王妃に関わるものと思ってしまう”と言いました。
――でも、メリッサが言いました。
――“埃も、葉も、偶然もあります。”
――私は少し笑いました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、釦を一つ掛け違えました。偶然です。
リクは笑った。
「また釦」
ミナも微笑む。
「偶然の記録ですね」
セリカが真面目な顔で言った。
「偶然を全部意味にされると、人は息ができない」
リュミナは深く頷いた。
「偶然落ちた肉を運命にしてはいけない」
「だから床に落ちた肉を食うな」
「今は食べていない」
「昔は?」
「昔の竜に衛生規則はなかった」
今日だけの棚に札が増えた。
“埃も、葉も、偶然もある。”
“偶然を全部意味にしない。”
“掛け違えた釦は、今日は偶然。”
昼前、白盾記録院から報告が届いた。
灰色の箱を開けた翌日、ヴォルクは空欄の写しを見た。
記録官が立会い、いつもの言葉が読まれた。
“これは、私が知らない名であって、私の空欄ではない。”
ヴォルクは紙を前に置き、しばらく黙っていた。
その後、審理官が問うた。
“今日は、何を記録しますか。”
ヴォルクは答えた。
“空欄の隣に、自分の罪を書きたくなった。”
部屋は静かになったという。
審理官が問う。
“書きますか。”
ヴォルクは首を横に振った。
“書かない。空欄を、私の罪の隣に縛りつけることになる。”
さらに長い沈黙。
“私の罪は私の罪として、別に記録されるべきだ。”
レインは報告を聞き、目を伏せた。
「空欄の隣に、自分の罪を書きたくなった」
セリカが低く言う。
「所有の形を変えただけになるところだったな」
ミナが頷く。
「罪を認めることと、他者の空欄を自分の罪の飾りにすることは違います」
リオは間の棚に札を書いた。
“空欄を、私の罪の隣に縛りつけない。”
その下に、
“私の罪は私の罪として、別に記録する。”
セリカが足した。
“免罪ではない。”
レインはしばらく考え、
“隣に置くことで、混ぜない。”
と書いた。
リクはその札を見て、石と花弁を思った。
隣に置く。
でも、混ぜない。
近くにあることを理由に、同じ名前で呼ばない。
午後、レムリア商市からの手紙が来た。
入口の砂と、誰のものかわからない砂。
サラ・ベルテは二つの紙包みを並べて置いた。
すると、料理長が一つの箱へ入れようとして、手を止めたという。
“同じ砂箱にすると、同じ砂になる気がする。”
“でも別々にしすぎると、入口が箱だらけになる。”
サラは悩み、二つの紙包みを同じ小箱に入れた。
ただし、仕切りをつけた。
箱の札にはこう書いた。
――同じ入口の砂。けれど、同じ人の砂とは決めない。
リュミナが手紙を読み、深く感心した。
「仕切り」
セリカも頷く。
「制度には必要だな」
リクは言った。
「一緒に入れても、混ぜない」
ミナが微笑む。
「はい。近さと混同を分ける工夫です」
今日だけの棚に札が置かれた。
“同じ箱に入れても、仕切りをつける。”
“近さと混同を分ける。”
リュミナが台所の棚を見た。
「豆と肉にも仕切りがいるか」
セリカが言った。
「皿の上で争うな」
夕方、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――銀の釦のそばの葉を少し離した。
――私は、机の上にあるものをすべて物語にしたくなる。
――葉も、埃も、傷も、釦も、手紙も。
――しかし、すべてを物語にすれば、偶然が休む場所を失う。
――今日、私は王妃の机の傷を一つ見た。
――そして、横にあった埃を埃として見た。
――エレオノーラの印にはしなかった。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目のそばにまたパン屑が落ちた。今日は笑って拾った。二杯目の教えにはしなかった。
リクは最後を読んで笑った。
「しなかったって書いてる時点で、ちょっと教えになってるけど」
リュミナが真剣に頷く。
「高度な矛盾だ」
セリカが笑う。
「まあ、気づいているならいい」
今日だけの棚に札が増えた。
“偶然が休む場所を失わないように。”
“埃を埃として見る。”
“二杯目の教えにはしなかった。”
最後の札は日々の棚に置かれた。
リュミナが少し名残惜しそうに見たが、何も足さなかった。
夜、リクは低い台の石と花弁を見た。
花弁は印ではない。
石は花ではない。
紙包みは、粉になった花を預かっている。
全部近い。
でも、全部違う。
「これ、棚もそうだよな」
リクが言った。
リオは頷いた。
「はい」
「同じ棚にあるからって、同じ話じゃない」
「はい」
「でも、離しすぎても探せなくなる」
「はい」
ミナが静かに言った。
「だから、仕切りと札があるのですね」
リクは少し考え、今日だけの棚の端に小さな仕切りを置いた。
百番目の余白は、そのまま空いている。
その隣に、風の跡。
その隣に、花粉の紙包み。
白い石。
花弁。
近いけれど、混ざらないように。
木札にはこう書かれた。
“近くに置く時は、混ぜない工夫をする。”
その夜、リオは新しい香りを作った。
石のそばから少し離した花弁。
偶然の葉。
掛け違えた釦。
空欄を自分の罪の隣に縛りつけなかったヴォルク。
仕切りをつけたレムリアの砂箱。
埃を埃として見た王。
二杯目の教えにはしなかったパン屑。
ラベルは、
“そばにあるだけで、同じものにしない。”
その瓶は、仕切りのある場所へ置かれた。
混ざらないように。
でも、遠くなりすぎないように。
香りは残る。
同じ箱の中で仕切られた砂にも。
印ではない花弁にも。
そして、近くにあるものを急いで一つの物語へ縫い合わせず、石は石、葉は葉、埃は埃として休ませた夜の棚にも。




