第百六話 印を置いたら、目を離す練習
翌朝、リクは白い石を見た。
花粉の紙包みのそばに置かれた、三日後の印。
昨日は、その石のおかげで少し楽になった。
三日後を全部自分で握らなくてもいい。
札と石が覚えてくれる。
そう思えた。
しかし今朝、リクは気づいた。
楽になったはずなのに、目が石へ行く。
白い石はずれていないか。
紙包みに近すぎないか。
遠すぎないか。
猫が来て転がしていないか。
風で動いていないか。
石はただそこにあるだけなのに、リクの目を小さく引っ張った。
「……見てる」
リオが隣で頷いた。
「はい」
「見張ってる?」
「少し」
リクは顔をしかめた。
「休むために置いたのに」
ミナがやわらかく言った。
「印を置いたら、今度は目を離す練習が必要になることがあります」
セリカが頷く。
「門番にも休憩がいる。印は門番ではない」
リュミナが台所から言った。
「鍋の蓋をしたら、蓋をずっと見つめても煮え方は変わらぬ」
セリカがすぐに返した。
「お前は蓋を開けすぎる」
「確認は大事だ」
「確認しすぎると湯気が逃げる」
リュミナは少し黙り、真剣に頷いた。
「それも真理だ」
リクは白い石から、ゆっくり目を離した。
金木犀の枝を見る。
落ちた花を見る。
朝の空を見る。
石は視界の端に残っている。
でも、真ん中には置かない。
「今日は、石を見ない時間を作る」
彼はそう言って、木札を書いた。
“印を置いたら、目を離す練習。”
それを白い石のすぐそばではなく、今日だけの棚の入口側へ掛けた。
見張るためではなく、通る時に思い出すために。
朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。
――リクへ。
――銀の釦を三日後の印として机の端に置きました。
――昨日は楽になりました。
――でも今朝、私は釦ばかり見ていました。
――ずれていないか。
――手紙に近すぎないか。
――遠すぎないか。
――父上も釦を見ていました。
――メリッサが、釦のそばに小さな布を置こうとしたので、私は止めました。
――印の印になってしまうと思ったからです。
――今日は、釦を見た後、窓の外を見ます。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、釦を全部留めました。印ではありません。服です。
リクは手紙を読んで、思わず笑った。
「印の印」
ミナも微笑む。
「増え始めると、止まりにくいものです」
セリカは大きく頷いた。
「札の札、棚の棚、規則の規則。王都がよくやる病だ」
リュミナが真剣に言う。
「鍋の鍋は?」
「それはただの重ね鍋だ」
「便利だ」
「話を増やすな」
今日だけの棚には新しい札が置かれた。
“印の印を作らない。”
“釦は印でもあり、服の一部でもある。”
リオはその札を見て、少し考えた。
物は一つの役目だけではない。
釦は三日後の印にもなる。
けれど、服を留める釦でもある。
石は三日後の印にもなる。
けれど、庭にあったただの石でもある。
印にしたからといって、その物の他の名前を奪ってはいけない。
昼前、白盾記録院から報告が来た。
灰色の箱は、今日も開けられなかった。
ヴォルクは箱の前に座り、決められた言葉を読んだ。
“これは、私が知らない名であって、私の空欄ではない。”
その後、記録官が尋ねた。
“今日は開けますか。”
ヴォルクは答えた。
“今日は、箱から目を離す。”
審理官が問う。
“見ないのですか。”
ヴォルクは言った。
“見張っていると、持っている気になる。”
さらに沈黙。
“持っていないことを、見ない時間で確かめたい。”
戻り香の家でその報告が読まれた時、レインはゆっくり息を吐いた。
「持っていないことを、見ない時間で確かめる」
セリカが低く言った。
「箱を睨んでいれば責任を果たしている気になるからな」
ミナが頷く。
「見ないことが逃げになる日もあります。でも、見ないことで所有を弱める日もあります」
レインは間の棚に札を書いた。
“見張っていると、持っている気になる。”
その下に、
“持っていないことを、見ない時間で確かめる。”
セリカが足した。
“免罪ではない。”
リクは小さく書いた。
“箱は、見張らなくても箱。”
午後、レムリア商市から手紙が届いた。
入口の砂の紙包みと青い石の印。
サラ・ベルテは昨日、印を置いたことで安心したが、今朝は青い石ばかり見てしまったという。
すると、“今日は名前を言わない者”が入口に来て、青い石を見て言った。
“それは、私を待ち伏せする石ですか。”
サラは慌てて謝った。
石は三日後の印であって、彼を待ち伏せるものではない。
そう説明すると、男はしばらく黙り、こう言った。
“では、入口から少し離してください。入る前に見えると、答えを求められている気がする。”
青い石は、入口から少し奥へ移された。
見える人には見えるが、入る前には見えない場所へ。
リクは手紙を読んで、白い石を見た。
「待ち伏せする石」
ミナが静かに言った。
「印が相手を待ち伏せてしまうこともあります」
セリカが眉を寄せる。
「善意の罠だな」
リュミナが重々しく頷く。
「匂いだけで食卓へ連れていくのと同じだ」
「それはお前がよくやる」
「反省している」
「本当に?」
「少し」
今日だけの棚に札が増えた。
“待ち伏せする印にしない。”
“入る前に見えると、答えを求められている気がする。”
リオは白い石の位置を見た。
花粉の紙包みのすぐそば。
戻り香の家の者には見えるが、初めて来た人が入口からすぐ見る場所ではない。
それでも、リクへ尋ねた。
「石の場所、このままでよいですか」
リクは少し考えた。
「俺はいい。でも、紙包みに近すぎる?」
ミナが言った。
「明日また見てもよいですね」
リクは笑った。
「また明日見て決める」
夜、国王から手紙が届いた。
――リクへ。アリアンヌへ。
――銀の釦を印として置いた後、私は釦を見張り始めた。
――印は休むためのものなのに、私は印に命じられていた。
――アリアンヌが“印の印にしない”と言った。
――その言葉を聞き、私は釦から目を離し、窓の外を見た。
――風で木が揺れていた。
――私は揺れを正さなかった。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。二杯目は半分。今日は椀を見ずに一口飲んだ。こぼさなかった。
リュミナが大きく息を呑んだ。
「椀を見ずに一口」
セリカが即座に言う。
「真似するな」
「危険だ」
「わかっているならいい」
リクは笑いながら札を書いた。
“印に命じられない。”
“釦から目を離し、窓の外を見る。”
“椀を見ずに一口。こぼさなかった。”
最後の札は日々の棚に置かれた。
リュミナが非常に満足そうだった。
夜、リクは白い石を見に行かなかった。
行きかけて、やめた。
「今日は、見ないで寝る」
彼が言うと、リオは頷いた。
「はい」
「明日、石が転がってたら?」
「明日見ましょう」
「紙包みが飛んでたら?」
「その時に拾いましょう」
「大変だったら?」
ミナが微笑む。
「その時は、助けを呼びましょう」
リクは少し安心して頷いた。
「じゃあ、寝る」
その夜、リオは新しい香りを作った。
白い石から目を離した朝。
印の印を作らなかったアリアンヌ。
灰色の箱を見張らず、持っていないことを確かめたヴォルク。
待ち伏せする石になりかけたレムリアの青い印。
釦から目を離し窓を見た王。
椀を見ずに飲んでこぼさなかった二杯目。
ラベルは、
“印を置いたら、目を離す練習。”
その瓶は、白い石のそばではなく、今日だけの棚の入口側に置かれた。
見張らなくても目に入る場所へ。
香りは残る。
見なかった石にも。
開けなかった箱にも。
そして、印に休ませてもらうはずの人が印に命じられないよう、そっと窓の外へ目を移した朝のまばたきにも。




