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1998年3月

 私が幼いころ。

 玖条家の邸宅には不思議なところがあった。

 玖条の家には、『病室』という部屋があった。

 その意味が分からなかった。

 玖条の家は、歴史ある家だと聞いていたからあまり、疑問を持たなかった。ただ、感染症のための部屋なのかと当時は思っていた。

 

 

 

 私には、歳も血も異なる『兄』がいた。

 この表現が正しいのか今でも疑問に感じるときがある。

 年齢は、十八くらい違う。

 血も遠縁………というよりも繋がっていないとのこと。

 もはや、意味が分からない存在。

 私が、彼の存在を知ったのは当時四歳になったときだ。

 親類でのパーティー。

 玖条の家は、親族が多い。

 『玖条』と名乗れるのは、この家に住んでいる私や両親、その他十名で構成されたものだけだが、それを除いた親族はゆうに三桁の人数に上るらしい。

 正確に把握しようとすると、家系図を戦国時代から引っ張ってこないと全体を把握できないと母から言われた。父からは、大戦の影響でこれだけだが、本来はその三倍の人数に上っていたとか。

 そこで自慢げに言われたところで、『ふーん』である。

 それに———。

 誰もかれも『私』には関心がない。

 今日は、私の誕生日………のはずだが、ここにきている人達は周りのご機嫌取りで忙しいらしい。

 特に私の父に対しての媚びが見え見えで子供ながらに嫌悪感が前に出る。

 こんなもの、か。

 と、大家に生まれ出た自分の運命を嘆いた。

 本来なら、子供らしく駄々をこねたりするのだろうが、当時の父が怖かった。周囲の目にさらされた場面で、私が何か『ミス』をすると殴られた。子供だからと甘えたことはさせてもらえなかった。だからこそ、こんな『醜悪な』場面でも表情は崩さなかった。

 でも、こんな光景をあと何年見ればいいのだろうか。

 キー。

 キー。

 キー。

 虫たちが合唱している。

 なんて目障りなんだろうか。

 ズキズキと頭が痛い。

 そんな中、ひときわ虫たちが喚きだした。

 なんだなんだ、と父ですら慌てだした。

 どうしたのだろうか。

 そんな折、聞こえてきた一声に全員の声がピタリと止んだ。

 

 「祠堂がきたぞ!」

 

 祠堂と聞いた時の両親の慌て具合は見ていられなかった。

 今まで椅子にふんぞり返っていたのに、椅子から立ち上がって近くの使用人に耳打ちをして引っ込ませた。母は、会場にいる人達が慌てずテーブルに着くように話に行ったらしい。

 そんな珍妙なやり取りをしていると、会場の扉が開かれた。

 現れた人物に、息を呑んだ。

 周囲のきらびやかな装飾とは反対にシンプルな漆黒のドレス。

 夜を従えているような闇の化身。

 完成された黒髪は、シャンデリアのもとで宝石のように輝いている。

 対照的に色白の肌が、この女の人を強調させる。

 何より、その瞳。

 煌々と輝く山吹色。

 純粋に怖いくらいに綺麗。

 完璧に近い造形美。

 でも向けられる目や無表情の顔からは、底知れない感情を思わせる。

 幻想種だ。

 例えるのなら死神。

 だからこそだろう、誰一人口を開けないでいた。

 「あら、ここはお通夜でもあったのかしら」

 その元凶が口を開く。

 透き通った声色。

 張った糸が織りなす美声。

 それゆえに誰もが頭を垂れるしかできなかった。

 「まったく」

 呆れた、と言わんばかりに嘆息してみせた。

 当の私は、何もわからずポカーンとしていた。

 が、我に返ったのか私の父は絞り出すように口を開いた。

 「祠堂様。このような場所にいかがされました?」

 絞り出す、上ずった声。

 普段の父からは考えられない緊張感。

 何者なのだろうか、と疑問に思った。

 祠堂。

 さっき、そう聞こえた。

 「用も何も、今日はあなたの娘の誕生日と聞いていたのだけど?」

 そういって、女の人は周りを一瞥して———。

 

 私と目があった。

 

 少しだけ、口元が緩んだように見えた。

 一瞬だけ。

 その一瞬だけ、この人から人間らしさを垣間見えたように思えた。

 「娘の誕生日を把握していただき、感謝の念に堪えません。しかし、親族のみの少人数で行っていたため生憎と十分な対応ができず申し訳ありません」

 少人数?

 首をかしげてしまった。

 そんな私の様子から察してしまったのか、女性は鋭い刃物を連想させるような声色で父を睨みつけた。

 「この人数を少人数と言えるのなら、数字に疎くなったとみていいのかしら?」

 その言葉に父は沈黙で答える。

 「それに、親族と言うのであればこちらにもいるので」

 その言葉に、ハッとなった父が女性を見上げる。

 と。

 「君がアオイちゃんかな?」

 私の横にいつの間にか男の人が立っていた。

 見ると、少し血色の悪い男性が立っていた。

 ただ肌色とは対照的に、身だしなみには清潔感があり、着ているスーツにはゴミ一つついていない。それにあの女性とは正反対に明るくにこやかな表情を見せていた。

 年齢は、二十歳と少しくらいだろうか。

 私と同じ目線になる様にしゃがんでくれる優しさ。

 なによりも、そのアイスブルーの瞳がきれいで———。

 「あ、はい!」

 思わず、父と同じように声が上ずってしまった。

 そんな私に男の人が微笑み返す。

 ゆっくりとこちらを愛しむように。

 「薄暮! 私の娘に近づくな!」

父は、まるで忌み嫌うものを見るようにその男の人を見ていた。

 そんな父の声など聞こえないかのように、その人は手に持っていた小さな小包を渡してきた。大きさはそれほどでもない。私の掌にすら収まる大きさ。

 「開けてごらん」

 自然と声の言う通りにしてしまう私がいた。

 なんとなく悪いものではないと、直感が告げている。

 むしろ心が躍るような———。

 開けると、まるでガラス玉のようなスライムのようなぷにぷにとした球体が顔を出す。

 「キレイ」

 口から勝手に感嘆の声が出る。

 中は澄み切っていて、気泡のような不純物が見えない。

 むしろ、触れている手がこの綺麗な純正を汚しているようで———。

 「それを食べてごらん」

 「え?」

 これ、食べられるの?

 そんな疑問が表情に出たのか、男の人はいつの間にか私と同じものを手に持ち、口に運びいっきに飲み込んだ。

 遠くで父が何かを言いたそうにしているが、それを抑えるようにあの女性が間に入っている。

 まるで躾けられた犬のようだと思ってしまった。

 主人の手前、吠えることができず地団駄を踏む。

 私は、言われた通り透明な球体を口に入れた。

 入れた瞬間。

 ジュースになれた体が、急に清涼飲料水に当てられたかのような爽快感。

 さっきまで抱いていた嫌悪感が晴れ、心地いい日陰にいるような感覚。

 ふ、と口の中に何も残っていないことに気がついた。

 あの透明な球体を私はいつの間にか飲み込んでいたらしい。

 口の中は、名残惜しく。

 残りのツユを啜ろうと口内で歯茎の周りを舌が跳ね回る。

 手についた残りがないか目で追う自分がいた。

 「気に入ってくれてよかったよ」

 はっ、と人前であることを忘れていた。

 急に恥ずかしくなり、見上げると太陽のような笑顔。

 純粋に綺麗な顔立ちなら、『祠堂』と呼ばれた女性がそれにあたるだろう。しかし、この男性は周囲を照らす光。昼と夜の境界線。燃える夕暮れに藍の色が滲む黄昏。此岸と彼岸の境目。

 彼は、そんな誰にも属さない………いや、全てを交えた美しさを持っている。

 そっと、彼の右手が私の頭を撫でようとしてひっこめられた。

 さっきまでの左手で私の頭を撫でてくれた。

 その理由は見てわかった。

 彼の右腕は、包帯でグルグル巻きにされていた。

 所々の隙間から肌の色が紫になっているのが見て取れた。

 病気?

 一瞬、そう考えたがそれにしては局所的過ぎる。

 でも、撫でられている手にはやはり慈しみを感じる。

 「それじゃ、僕たちはお暇するよ。君のお父さんが睨んでいるからね」

 「そんなの———」

 言いかけて、本当に怨嗟の目でこの人を見ていた。

 私は離れていく手を名残惜しそうに、眺めていた。

 そんな私のことを気にも留めず、父は憎々し気に彼の背後に罵声を浴びせた。

 「この異分子が!」

 その言葉で、いっきに周囲の温度が低下した。

 発生源は、もちろん———。

 

 「私の旦那が………何?」

 

 眼光だけで人が死ぬ。

 その言葉は、間違っていない。

 実際に、父は『生きている』という実感を失ったかのように体が戦慄いていた。

 『祠堂』と呼ばれた女性が指を鳴らす。

 それだけで、父は胸を抑えて地面にうずくまってしまった。

 母が、そこに駆け寄るが背中を擦ることしかできない。

 「ダメだよ、篝火」

 あの優しそうな男の人が困り顔で女性を嗜めていた。

 語りかけられた女性が、鋭い眼光で男の人も睨むが慣れているかのように、そっと腕を組みエスコートをして引っ張っていった。

 私は、なぜかそこで出ていく二人を追いかけた。

 何を思ったのか、私でもわからない。

 でも言葉にしておかないと。

 会場を抜けて二人の後ろに迫った。

 「あ、あの!」

 呼び止められた二人は意外そうな表情をしていた。

 頭の中では、なんて言おうか逡巡していた。

 でも、口から出たのはもっとシンプルで簡潔な言葉だった。

 「あ、ありがとうございました!」

 そんな言葉を受けて、二人はお互いを見合って———。

 「「どういたしまして」」

 ああ、なんて綺麗なんだろうか。

 太極図のような美しさ。

 一種の芸術作品のような二人だ。

 まるで究極の———。

 そんな私に。

 「私達をエスコートしてくれない?」

 『祠堂』と呼ばれた女性が右手を差し出す。

 男の人は、それに合わせて左手を差し出してきた。

 私は二人の間に挟まる様に一緒に歩いた。

 体中からあふれる多幸感。

 純粋な感情が体を支配する。

 時間を切り離したような永劫の空間。

 この時だけ、私はただの子供に戻れたような。

 そんな折、

 「ちょっと寄り道したいな」

 その男の人が玄関口ではなく、廊下奥へ進む。

 ああ、そうか。

 この人。

 『玖条』に連なる人なのか。

 何ともなしに感じてしまった。

 しかし、道行く最中。

 この洋館を把握している身には、この廊下奥には『へんな』部屋があるだけだ。

 

 『病室』

 

 その前で二人が立ち止まる。

 中には入らず、男の人がそっと『右手』でドアを撫でる。

 言葉はない。

 その表情からは何も読み取れない。

 ゆえに女性の口から、

 「消したい?」

 ………ああ、嫌な記憶なのかと理解してしまった。

 「いや、無くなったからと言って過去は無にならないよ」

 そこで、右手を引っ込めると来た道をUターンし始めた。

 その時は、まだ彼らと一緒に手を繋いでいられると考えていた。

 無知な子供だ。

 会話から察すればいいのに。

 

 

 

 正面玄関で二人に頭を下げた。

 「あ、あの! お二方にあえて、その、よかったです!」

 たどたどしい私の言葉に二人ははにかんでいた。

 彼らは車に乗ると、そのまま何事もなかったかのように去っていった。

 会場に戻ると、嵐が過ぎたかのように談話する虫たちであふれていた。

 背筋がゾワゾワする。

 ………なんでだろう。

 こんな気分は。

 まるで、芸術作品を見た後に排水溝の汚れを見ている気分だ。

 彼らは、気品を持っているかのように振る舞っているが、本物は纏っていることを知った。ゆえに、私から見ればつぎはぎだらけの野生児にしか見えない。

 「クソッ!」

 中でも私の父は、ひどかった。

 普段を見てきたからなのかもしれないが、今の地に落ちた姿を見ると地べたを這っている虫だ。

 ああ、人の崩壊とはこういう物か。

 幼いながらも理解してしまった。

 自然と口元が吊り上がっていた。

 醜態。

 その日から、私は父が汚れた人として認識するようになった。

 

 

 


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