聖座の影
「素晴らしい歌声でした、カース・ディ・トラッド。あなたのその悲哀に満ちた歌声は、まさに天上の主が地上に遣わした奇跡そのものだ」
楽屋の扉が静かに閉まり、現れた人物の言葉に僕はゆっくりと振り返った。
濃紫の絹地に金の刺繍が施された豪奢な法衣を纏い、数人の枢機卿を影のように従えて現れたその男は――。
先の戦争で幽閉され、心身ともに衰弱して事実上引退に追い込まれた先代教皇の後釜として、新たに聖座に就いた『時の新教皇』ユリウス6世だった。
先代の温和な教皇とは似ても似つかない。
その鋭い眼光の奥には、神への信仰心などではなく、ギラギラとした底知れぬ『権力への野心』が隠されているのを、僕と脳内の『私』は見逃さなかった。
「下がっていなさい」
ユリウス6世が短く命じると、従者たちは一言も発さずに楽屋から退室した。
二人きりになった室内で、教皇は僕にじわじわと近づき、その冷たい指先で僕の頬を優しく撫で上げた。
そのねっとりとした手つきは、聖職者が信徒に向ける慈愛のそれではない。
完全に『極上の獲物』を見定めた、最高権力者の歪んだ愛欲のそれだった。
「先の教皇を救い出した立役者である君には、我が教会も特別な便宜を図りたいと思っていてね。……どうだろう、栄えある教皇庁の『終身専属歌手』として、私のすぐ傍でその声を聴かせてはくれないか?」
教皇の視線が、僕の男でも女でもない不完全な身体を這うように動く。
「君が望むものなら何でも……富でも、地位でも。あるいは、国家を動かす『公にはできない軍事的な力』でも——何でも私の胸三寸で与えてあげよう」
パトロンを得るための、これ以上ない最高で最悪の機会が、向こうから転がり込んできた。
『……ついにお出ましね。教皇の一本釣りよ』
脳内で『私』の、緊張に震える声が響いた。
『カース、これが歴史に悪名を残す「権力者の寵児」の椅子よ。これを受け入れれば、教会の裏の資金も、闇の暗殺部隊も、すべてがあなたの思いのままだわ……。でも、本当にその泥水をすする覚悟はあるの……!?』
((ああ。ジュリアスを地獄の底へ沈めるためなら、なんだってやるさ……。教皇の愛人にでも、悪魔の奴隷にでも、何にでもなってやる——))
僕は虚ろな、しかしどこか妖艶な微笑みを唇に浮かべ、僕の頬を撫でる教皇の冷たい手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「私の歌が、猊下のお慰みになるのでしたら、喜んで……」
誘惑するように彼の手首にそっと唇を寄せ、強請るように上目遣いで教皇を見つめる。
その瞬間、ユリウス6世の瞳に、ぞっとするような加虐的な独占欲が灯るのが見えた。
実の弟への凄惨な復讐を果たすため。
かつて世界を救った天使はついに、聖座の頂点に君臨する『悪魔』と、魂を売る血の契約を交わそうとしていた。
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