プロポーズ
その夜、僕は誰の目にも触れぬよう足音を消し、アイシャの寝室を訪ねた。
シルクのカーテンの隙間から、青白い月明かりだけが差し込む静かな部屋。
「……こんばんは、アイシャ。今夜は月が綺麗だね」
ベッドの上にぽつんと腰掛けていた少女は、影のように現れた僕の姿に驚き、肩を揺らした。
「カース様……?」
戸惑うように、けれどどこか縋るように僕の名を呼ぶ彼女のすべてが、たまらなく愛おしかった。
僕はそれ以上言葉を挟むことなく、彼女の華奢な身体をそっと引き寄せ、力強くその腕の中に抱きしめた。
「カ、カース様……っ!?あの、これはいったい——」
突然の体温に、アイシャの困惑した声が胸元で跳ねる。
僕は彼女の耳元に唇を寄せ、心の奥底にくすぶっていた本心を、熱を込めて囁いた。
「アイシャ、復讐なんてもうやめよう。……復讐の後に残る冷たい荒野よりも、もっとずっと温かくて幸せな未来を、僕が君に示すよ。いや――僕が君を、絶対にそこへ連れて行くから——」
耳元でそう囁き終えると、僕は歌を紡いだ。
彼女のためだけに、静かに、優しく、魂のすべてを込めて愛の旋律を奏で始める。
それは、かつて彼女が僕にくれた、あの命がけの「أحبك」への、僕なりの遅すぎる返歌だった。
僕のソプラノが月明かりの部屋を満たし、彼女の凍てついた心を内側から溶かしていく。
歌い終わる頃には、アイシャの目からは大粒の涙が溢れ、その美しい頬を濡らしていた。
僕は彼女の濡れた頬にそっと両手を添え、真っ直ぐにその潤んだ瞳を見つめた。
「見ての通り、僕はチビで力も弱いし、すぐに悩む。叱って支えてくれる人がいないと、時々独裁者みたいに道を踏み外しそうになる。それに身体だって不完全で、君に子供を産ませてあげることもできない……。本当に、歌うことしか取り柄のない頼りない男だけど……」
ゴクリ、とアイシャが息を呑む気配が伝わる。
僕は自身のすべてをさらけ出すように、一世一代の言葉を紡いだ。
「——僕の一生を掛けて、君を幸せにしたいんだ。……だから、僕について来てほしい」
不器用で、けれど一切の飾り気のない、剥き出しの本心からの告白。
アイシャは驚きに大きく目を見開いた後、堰を切ったように激しく涙を流し、僕の胸にその綺麗な顔を埋めた。
細い指で僕の背に縋りつき、衣服をきつく握りしめる。
そうしてひとしきり泣いた後、月明かりのベールに包まれた世界の中で、彼女は震える声で、しかし確固たる愛の誓いを返してくれたのだ。
「……仰せのままに。世界が何と言おうと……貴方こそが、私だけの、たった一人のイジェプタ様です」
神も、国家も、敵も味方も、もはや僕たちには関係ない。
世俗の残酷なルールによって身体を傷つけられ、未来の可能性を理不尽に奪われた、カストラートの少年と人工不妊の巫女。
それは、同じ深い闇と孤独を共有した二人だけの、誰にも内緒の、寝室での『秘密結婚』の儀だった。
僕たちの奏でる新しい未来の旋律が、今度こそ静かに始まりを告げていた——。
少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると大変励みになります!
基本毎日更新です。
今後もよろしくお願いします!




