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26,夏椿

 母屋から離れの自室まで、勝手口から十二歩、玄関からだと二十三歩。このたった数歩で、湯上がりの火照った身体を夏の夜風が爽やかに冷やす。

 部屋から、消し忘れていたラジオの音が漏れて聞こえた。流行りのバンドが夏を歌った曲が何かを掻き立てるように流れていた。

 美保子と顔を会わせなかったけれど、自室の扉を開けると、そこに父親がいた。

「びっくりしたな」

 さっきの事がもう父親に伝わったのだと察して、気まずい思いのまま部屋に入る。


「なに、どうしたの」

 文句を言いに来た事は明白だけれど、太い眉を吊り上げ、甚平姿で立ったままの父親の横を通って机の椅子に座る。

 棚の上のラジカセを切ろうと思ったけれどそのままにした。殺伐とした空気の部屋に似合わない声でラジオDJが曲紹介する声が流れる。

「美保子さんの事なら、言い過ぎたって思ってるよ。けど、あれはあの人も言い過ぎだったんだよ、だからつい、」

「そんな事はどうでもいい」

 父親の怒鳴り声が、真次郎の言い訳じみた話を遮り、始まった、と、目を逸らしては口を閉じた。

「これは何なんだ」

 父親が声を荒げて、目の前にそれを突き出した。


「えっ」

「え、じゃねえだろ、何なんだこの中身は」

 しまった、失念していた訳ではなかったけれど、机の上に置いたままになっていた。

「この預金残高はなんだ、こんな大金どうしたんだ」

 通帳を開いて残高の印字されたページを見せてくる。マズイと思いながらも

「勝手に見るなよ」と、てを伸ばして、通帳を取り替えそうとするが、寸でで避けられ椅子に押し戻される。


「何の金なんだ」

「俺のじゃないんだよ、預かった、、、預かった金なんだって」

 真次郎の咄嗟の言い逃れが通る訳もなく、激怒した父親が詰め寄ってくる。

「子供が持てる金じゃ無いだろうが、お前何したんだ」

「何もしてねえよ」

 反論しながら突き出された通帳に「返せよ」と飛び付き、今度は奪い取った。


「寄越せ、真次郎」

 胸ぐらを捕まれ押さえつけられる。抵抗する真次郎に平手が飛んで来た。

「お前、何してんだ、何やったんだ」

 平手の次は、右頬に拳が飛んで来た。昼間に殴られた傷を上塗りするように痛みが走る。何をしたと言われ、後ろめたい。自分のした事の罪悪感が波のように寄せて、「真次郎は悪くない」と言ってくれた皆と、江藤たちへの憎悪とがせめぎ会う。

「何も知らねえくせに」

 呵責と不条理を、そのまま父親と一緒に払い除けた。


 突き飛ばされた父親は痛みは無かったであろうが、真次郎の反撃に驚いて、目を見開き唖然とする。

 すぐにその瞠目然とした表情を怒りで赤くすると、「真次郎っ!」と、怒号を上げて掴みかかる。

 身体の大きい父親と掴み合いになると、対格差では敵わずに、パイプベッドの上に組倒され、押し付けながら父親が叫ぶ。


「このやろう、誰に反抗してんだ」

「誰のお陰で飯食えてると思ってんだ」

 興奮状態で叫ぶ父親の言葉のほとんどは聞き取れなかったが、いかれた形相の後で、つけっ放しのラジオから知らない歌い手の叫ぶような曲が流れていた。

「反抗しやがって、あんな不良連中と付き合ってるからだ。髪まで染めやがって」

 髪の毛を鷲掴みされるが、跳ね退けようと抵抗しながら言い返す。


「関係ねえだろ、何も知らないくせに口出しすんなよ」

「あの金なんだ、どこから盗んだ金だ。アイツにやらされたのか」

 父親の「盗んだ金」という言葉がチクリと刺さる。連中とは友達の事で、アイツとは訊くまでもなく青野先輩の事を言っているのがすぐに分かったし、分かってしまう程に何度も言われた事に、言わさせた事に腹が立った。覆い被さる父親を、渾身の力で足を使って横に跳ね飛ばし、そのまま逆転して父親を組伏せる格好になった。躊躇は無かった。


「俺の仲間を悪く言うんじゃねえ!」

 固く握った拳を父親の顔面に振り下ろした。

拳に頬骨の固さが伝わり痛みが走る。怖くて全身が震えた。首が捻るように降られて勢いのまま床に頭を打ち付ける。

父親の表情が痛みと驚きで歪み、そこに上から真次郎の涙が落ちた。刹那、動きを止めた。


「うおおおお」


 真次郎は天を仰いで叫ぶと、震えたままの拳を再び握りしめて父親に振り下ろす。

 その瞬間、後頭部に強烈な痛みが走った。振り下ろした拳は力無く滑り落ち、身体が父親の上に沈むように倒れた。

 視界が閉ざされていく感覚の中でラジオの音が近くに聞こえた、ラジカセが目のまで揺れていた。美保子がラジカセを手にぶら下げるようにして立っていた。すると、ラジカセを高く掲げた。


「バカ、やめろ!」

 父親が叫ぶ中で、美保子がラジカセを振り下ろした。


 

海へ向かう小田急線は思ったよりも空いていたけど、藤沢辺りから急に、いかにも海水浴というの乗客が目立つようになった。

「奥山くん、来れなくて残念だね」

 隣で、吊革に揺れている沙希が溢した。言葉の通り残念だという表情だ。

「昨日は結構殴られて腫れていたからなあ、熱出たのかもしれないな。奥山の家の人は大した事は無いって言っていたけど」

「家の人?」

「そう、家の人・・・。お母さんじゃないし、なんて言えば言いか知らないけど、奥山がそう言ってたから。真次郎の所は複雑だからなあ、でも平気そうだったから」

「そう」小さく言うと少し黙った沙希だが「平気そうってどういう事?熱出たって確認しなかったの?そういうと所だよ、市村は」

 明るい声で市村を咎める。

「いや、だって、いつも奥山しか電話に出ないんだけど、めずらしく家の人出たから。あの人苦手なんだよ、何か怖くて」

 

市村が沙希の勢いにたじろぎながらも、慌てて弁明していると、電車は鵠沼に近づき、車窓に海岸線が見えた。「わあ」と、乗客がざわつき、小さい子供たちが興奮して騒ぐ。

 波の小さい湘南の凪いだ海に、夏の陽射しがキラキラと乱反射している。市村はその光りに照らされている沙希を横目に見惚れてしまう。胸が高鳴る。

 市村に限らずに、みんな海に触発されて、車内はまさに、胸踊る夏だった。


「おお、海だぜ。実はおれ、もう海パン履いてきてるよ」高階が、不意に打ち明けると、

「実は、おれもです」と、市村も白状する。ふと、隣の沙希に目を向ける。高階や斎藤も沙希を見る。

「な、何よう」

 沙希が眉根を寄せて市村を見る。ちょうど見上げられる格好になってドキリとする。


「私は水着持ってきてません」

「えっ、なんで?」市村が間髪入れずに聞き返す。

「必死だなあ、市村」高階が茶化す。


「だって、急だったし、水着買ってないもん」

「水着無いの?なにも新しいの買わなくたって」

「去年のなんて小さくて着れません」

 市村はそう言われて、思わず沙希を上から下へ視線を落とす。沙希は身を捩って市村を避ける。

「ちょっとお、何なのよ。先輩、市村が気持ち悪いです」

「必死だな市村」高階が笑う。


「でも、せっかく海に来たんだから海入りたいじゃん」

「足まで入れれば良いもん」

「ほら、学校の水着で良かったじゃん」

「嫌よ、変態!。菜穂せんぱーい、市村があ」

 沙希が松田菜穂に寄りかかり慰めを求め、よしよしと沙希の頭を撫でる菜穂に、高階、斎藤、市村と、男達の視線が集まる。それに気づいた菜穂が、唾を飲み込む三人に向けて、指で小さなバツを作って微笑んだ。

 三人の大きなため息が電車内に溢れると、端で見ていた沢田が声を出して笑う。

「必死だなあ」



「しかし、アイツら結局何人いたんだよ、六人かと思ったら後から出てきやがって、流石に疲れたぞ」

 黒沢の家を後ろに、緩い坂を下りながら宇田川が愚痴る。

「まあ、不意を突く作戦だったんだろうな。けど、あの宗教団体みたいにフード被ってた奴らは顔バレたくないって事だろう。顔は知らない奴だったけど、どこかで繋がってるって事だろうな、ちょっと気になるよな」

 難しい顔で話す室戸に、宇田川が

「まあ、取り敢えずは一件落着で良いんだろう」

「まあな、これで終いにしてほしいよ」と、室戸がため息混じりに言う。

 宇田川が、眉間の皺を深くしてしかめ面で言う。

「出てくるのかなあ」

「さあな」

「カグヤかあ」

 大きく息を吐いて天を仰ぐ。


「アイツらは、今ごろ海かあ」 

 思い出したようにぼやくと、嫉妬するほどの青い空が広がっている。

「そういえば珍しいよな、青野がこういうのに出て来るの。いつもなら面倒くさいとか、自業自得だとか、関係ねえとか言うだろ」

 宇田川が少し春彦の言い回しを真似た。

「はは、そうだな、あんな弱い奴相手にするかよ、とか言ってな。でも今回は奥山真次郎が絡んでるからな」

「やっぱ、特別なのか」宇田川が意外だと訊いた。

「特別っていうより、共感じゃないかな」

「共感?何に」宇田川が眉を上げる。

「奥山真次郎の強さにだろ」

「強さって、お前、あいつは」

 言いかけた宇田川の言葉を遮り、室戸が言う。

「力の強さじゃねえよ。春彦からしたら、戦い続けてる奥山真次郎の強さが眩しいんじゃねえかな。俺たちには分からない、そういう戦いをしてきた奴にしか分からんかもな」

「そういうモンかね」

「そういう意味じゃ、俺らの中じゃ一番強いんじゃないか」

「そういうモンだな」



「クソッ、後ろからバットで殴りやがって、もう二、三発殴っとくんだったぜ」

 室戸達と別れて、自宅へ向かう細道で、春彦は緩い登りの気だるさが堪えられずに、ぶつぶつと呟いた。

 熊蝉のワシワシと力強い鳴き声が、嫌になるほどの青い空に昇っていく。

 自宅のある住宅地に入る手前の坂に、奥山の家が見えた。


 真次郎の兄のベンが母親の家に行き、真次郎が離れの部屋を使うようになってからは、すっかり一度も寄っていなかった。少し前には奥山が居なくても勝手に上がり込んでたりしていたものだ。

 門の前を通ると離れが見えた。真次郎は今ごろ海だろうなとは思ったけれど、門を入って離れに向かった。

 久しぶりに来た奥山家は、幽霊屋敷のように鬱蒼としていた頃とは違って、庭が手入れされた状態が保たれていた。それは、あの、美保子という女の人の影響だったはずだ。けれどさすがに、敷地一杯の植物が枝を伸ばして生い茂っている。陽浴びた葉が蒸気を発しているのか、日陰があっても蒸した。


「やっぱり、空いてないか」

 離れのドアノブを回してみるが、鍵が掛かっていた。ベンが使っていた頃の、合鍵置き場だったブロックの穴の中を覗いても鍵はなかった。

 諦めて帰ろうと踵をかえすと、誰もいない思っていた植え込みの影に奥山の父親がいた。あの古い井戸の辺りだ。

 シャベルを手にしていたいたので穴を掘っていた様だが、ここから見えにくい程なのでかなり深く掘っていたみたいだった。樹の移植か植樹でもするのだろうか。それとも、あの古い涸れ井戸を撤去するのだろうか。どちらにしても一人でやるには大変そうだ。

 奥山の父親がこっちに気づいて立ち上がった。身体が大きいのもあるが、不快な威圧感がある。冷たく音の無い視線が合った。その一瞬、蝉の鳴き声だけが大きく耳に響く。

 春彦は、正直この大男が苦手だったが、「どうも」と、会釈をする。奥山の父親は額の汗を腕で拭うと背を向け、作業に戻った。

 

離れの部屋を後にして、帰りしなに玄関の方を見ると、夏椿の木の下に、ぽとりと落ちた花が幾つか転がっていた。

 椿は、花が丸ごと落ちる様が、首が落ちる様子を連想させるので忌避されていたと、そう植木屋だったじいちゃんに聞かされてからは、地面に転がった椿の死骸を見るようで何となく嫌な気分になった。


 射す様な夏の陽を浴びた深い緑の葉の中に、遅咲きの椿が一つあった。

あの最後かも知れない夏椿の花も、一日花なので夕方にはポトリと花ごと落ちてしまうのだろう。

その儚さゆえに綺麗に咲くのだと言うが、あまりにも刹那すぎた。



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