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25,憧れ

 天気予報では気温が三十度になると言っていたが、もうすでに越えているのではないかと感じてしまう程に、朝から蒸し暑い。三人並んで坂道を歩いていると、更に湿気がまとわり付いて鬱陶しい。


「早いところ終わらせようぜ」

 春彦が開襟シャツの襟をつまみ、ぱたぱたとさせて言う。

「しかしよ、わざわざ三人揃って行く必要あるのかよ、あんな雑魚シメに行くだけで」

 宇田川が面倒くさ気に不満を洩らす。

「なんだよお前ら、昨日は今から行くんだって聞く耳持たなかったくせに、一晩寝たら覚めちまったのかよ、たくっ、ホントに仲良しだなあ」

室戸が茶化すと、「そんなんじゃねえ」と、また二人の声が揃う。


「だってよ、今日は喧嘩じゃないだろうよ」

 春彦がぼやき、んんと、唸りながら両手で伸びをして、空を見上げる。

「クソ青いぞ、マジで」

「まあ、海水浴日和だわな。俺たちが受験生じゃなかったらな」

「なんだそれ」

「いやいや、俺ら受験勉強って事になってるからよ、忘れたのか」室戸が悪戯に笑って言う。


「受験生って言われてもなあ、どうせ俺ら、名前書ければ入れる様な高校くらいしか行けねえだろ。そもそも高校行くのかよ」

「宇田川、テメーと一緒にするんじゃねえよ」

「はあ、青野おめえ、高校行くのかよ」

「うっせえ、知るかよ」

「知るかよって何だよ、どっちだよ」


「春彦は高校どうするか悩んでるんだよな、青春だねえ、多いに悩みたまえよ」

 室戸が大袈裟に諭すような言い方をする。

「何が青春だコラ」

 いつもなら噛みつく勢いで言い返す春彦だが、図星を突かれて勢いが弱い。

「悩める春ちゃんはそっとしておくとして、宇田はどうなのよ、話したこと無かっただろ」


 宇田川が眉間の皺を深くして、神妙な面持ちで話し出した。

「俺は、どうかな。家の土建屋の仕事、今も手伝いって言うかバイトしてるだろ、その家の仕事するのが当たり前っていうか、そういうものだと思ってた。親父には、どうせろくな高校行けねえなら手伝えって言われた事あったしな。勉強嫌いだしよ、高校行くって選択肢無かった。って言うより、ちゃんと考えた事なかったわ。そう言う宣高はどうなのよ、お前らも同じ様なものだと思ってたぜ」


 前を向いて話していた宇田川が、室戸に向く。興味があった春彦もつられて室戸を見る。室戸が話し出すのを待った。

「そりゃあお前、高校くらいは行くさ」

 両隣からの視線を受けるが、室戸は何食わぬ顔で、さも当たり前のように言った。

「マジかよ」と、ため息混じりの宇田川が訊く。

「おいおい何だよ、憧れの眼差しを向けるんじゃねえよ」と、茶化す室戸に「向けてねえよ」と、春彦が返す。


「つうか、やりたい事って何だよ

 宇田川の問いに、照れ臭いのか、室戸は襟足をぽりぽりと掻いている。

「まあ、もうちょっと具体的になったら言うよ」

「なんだそれ」

「まあ、こんな場所で話す事じゃねえって事だよ」

 室戸が、肩透かしの宇田川と春彦の背中を、ぽんと叩き、笑った。

「その話しは、今回の件を片付けてからだな。何つうか、これが俺らの受験ってところじゃねえか」

「受験って、この件を解決すれば合格ってか」

「まあ、そんな感じだよ宇田」

「はあ、別に合格なんて目指してねえよ、俺は」

「おいおい春彦。これだけ下のモン傷つけられてんだし、先輩としてはきっちりケジメ取っておかねえとダメでしょ。そもそも俺らの名前語ってたのも、前に春彦が黒沢の事殴り倒した事を根に持たれてて、それで的にされたんじゃねえの」

「はあ、俺のせいかよ」春彦が理不尽だとばかりに言い返す。

「お前のせいだな。あれはひどい’」と、宇田川が同意して大袈裟に頷く。

「てめえ、このやろう」

 両側でいがみ合う二人を制して室戸が続けて言う。


「何にせよ、俺らを慕ってか、恐がってか知らねえけど、ついて来た奴らに、俺らが人の上に立つ男かどうかって、きっちり証明してやろうじゃないの」

「俺らって何だよ、俺を入れるんじゃねえよ」

「そう言うなよ春ちゃん。この試練に挑んでよ、さっさと合格して次のステージ行こうぜ」

 言い返そうとする春彦を遮り、室戸が目前の大きな和風の家を指差す。

「ここだ、ここ。黒沢先輩様の家」


 緩い坂を登って住宅地を抜けた辺りの家が黒沢の家だった。住宅団地に立ち並ぶ家より、一回り敷地が広く、真新しい大きな家だった。

 この辺りの地主が、区画整理で家を立て替える事が最近では増えてきていた。区画によっては元々の場所で立て替える事もあれば、新しく造成された別の地区に移って建てる場合もあって、空き地だらけの新しい造成地に、少しずつ家が建つようになった。

 黒沢の家は前者で元の土地に新築したようだ。門かぶりの松が丁寧に刈り込まれた枝を伸ばしている。そのトンネルを潜り、玄関へ向かう。


「何だか俺ん家とは全然違うな」春彦がぼやく。

「ボンボンにお仕置きしてやらねえとな」と宇田川が口歪めて笑みをこぼす。

「ボンボンは関係ないけど、そのお仕置きに来たわけだ」

 室戸がそう言いながら、躊躇もなく玄関の呼び鈴を押した。間の抜けた電子的なメロディーが流れる。

 春彦がおもむろに玄関の引き戸扉に手を掛けると、戸が抵抗なく動いた。

「お、開いてる」

 家の中の返事を待たずに、がらがらと扉を開けた。

「こんにちはあ、いらっしゃいますかあ」


 広いタタキに大きな框の玄関ホールに向けて、わざとらしい丁寧な言葉で呼び掛けると、すぐに階段を駆け下りてくる足音がして、黒沢が現れた。

 現れたというのも、広い玄関が舞台のようで、そこに颯爽というよりは、慌ててだが、正に現れたという感じだったので、正面の戸口に立って、特等席ばりで見ていた三人は思わず笑ってしまいそうだった。しかし、当の黒沢は至って真剣、と言うより敵意剥き出しだった。


「てめえら、家まで来やがって、このやろう」

 低く押さえた声で凄んでくる。

「その様子じゃ、来るの分かってたみたいだな、まあ話が早くていいや。じゃあ、ちょっと出て来てくれるかな、先輩!」

 室戸が対照的に、にこやかに笑みを浮かべて言いながらも語尾を強めた。宇田川が無言で一歩前に出た。

 黒沢はひとつ飲み込んで、喉をならした。


「今行くから裏の駐車場で待ってろ」

「逃げねえで来いよな」宇田川が更に前に出て言った。

「だれが逃げるかよ」

 黒沢はそう言うと、二階へと階段を上がって行った。


 三人は引き戸扉を丁寧に閉めて外へ出た。母屋から栗木の林を挟んだ裏の駐車場へ回ると、二台だけ車が駐車してあるが、駐車場と言うよりも空き地と言ったところで、周囲には雑草が生い茂っている。


「玄関の靴なん足あった」室戸がぼそりと言う。

「おお、ありゃあ五、六人は居るんじゃねえか」宇田川が小さく頷く。

「えっ、そうなのかよ、きづかなかった」春彦が顔をしかめて天を仰ぐ。

「そうじゃなきゃ、あの態度はとれないでしょ。昨日から泊まりで待機してたんじゃねえかな」


 栗木林の影から、黒沢がバットを手に、体を揺らしてゆったりと歩いてくる。その後ろを数人が続いて来る。

「ひい、ふう、六人か」宇田川が数えて鼻で笑う。

 近づいてきた黒沢が、歪んだ笑いを浮かべて、虚勢を張り挑発的に言う。


「テメエら、昨日は随分派手にやってくれたみてえだなあ、後輩だと思って優しくしてやってりゃあ調子に乗りやがって、タダで済むと思うなよ」

「たくっ、あんたら昨日から仲良くお泊りかよ、そんなに俺らが怖いのかよ」

「何だ室戸、コラ」

 イキって言い返した黒沢だが、一つ息を吐いて堪え、声を抑えて言う。


「お前らが昨日立川から取ったキャッシュカードあるだろ、分かるな、あれを返せば今回は見逃してやるからよ、カード返せ」

「おいおい、あれはウチの後輩のモノだろうが」

「おい室戸よお、中身は違うの分かってるんだろう。まあ、俺らも悪かったと思ってるからよ、それでチャラにしようや。な、カード返してくれ」

 あれほど虚勢を張っていた黒沢が、声を抑えて宥めるように言う。


「随分と必死じゃねえの、上のモンにバレるとヤバイってか」

「テメエ、後ろに誰いるか分かって言ってんのか、俺らはカグ」

「ヤメとけって、名前出すな」と、黒沢の言葉を遮る「もちろん、その後ろで踏ん反り返ってる奴にも挨拶行くからよ、俺らはシンプルなんだよ」

 言葉を呑み込んだ黒沢が、歯軋りが聞こえそうなほどに顔を歪める。

「先輩よお、ウチのモンに手え出してタダで済むと思うなよ、コラ」

「粋がってんじゃねえよ、宇田川あ」

「どうでもいいから早く来いよ、またぶっ飛ばしてやるから」

 春彦が掌を返して手招きする。


「調子に乗るなよコラあ」

「殺すぞコラあ」

 怒声と共に一斉に突進してくる。春彦が、先頭でバットを掲げて迫ってくる奴に目掛けて前蹴りを入れる。もろに蹴りを喰らって後ろに転げ、手にしたバットが離れて宙を舞い、後ろの奴に当たる。


「おいおい、大丈夫かあ」思わず口元が緩んでしまう。

「テメー、コノヤロウ」

 住宅地の外れの空き地で飛び交う怒鳴り声が、雲一つない、まっ青な空に響いた。



薄暗い街灯よりも月の方が明るいと思えるのは、止んだばかりの雨が作った水溜まりに反射しているからだろう。

「先輩たち、大丈夫かな」 

 帰りしなに、いつもの分かれ道の街灯の下、市村に訊いた真次郎の声には、心配が滲んでいた。


「大丈夫だろ、市中の人がチャリでマック来た時は焦ったけど、室戸先輩が迎えに行って、ちゃんと回収したって連絡あったんだから」

「回収って」真次郎が苦笑する。

「そう言ってただろ、回収したって。まあ、あの先輩たちなら大丈夫だって」

「そうだよな」

 一応の相づちを打つ真次郎に、急かすように市村が言う。

「ゆっくり風呂に入って、ちゃんと傷の手当てもしとけよ」

「お前もだろ、市村」

「じゃあな」


 市村の別れの挨拶に真次郎は「じゃあな」と、素っ気なく答えて別れるところだたが、「市村」と、呼び止めた。

 市村は二三歩踏み出していたけれど「なんだよ」と、振り返った。

「今日は、さ、ありがとな」

 真次郎は気恥ずかしさがあったけれど、この辺りは住宅地ほどの灯りがなく薄暗いから、夜影がそれを隠した。

「なに言ってんだ、ばか」

「ばかってなんだよ」

 暗くてお互いの表情ははっきり見えないけれど、笑っているのは伝わっていた。

「明日遅れるなよ」

「わかってるよ」


 軽く手を挙げて市村と別れて、自宅への道は街灯が少なくて暗いけれど、歩む足取りは重くない。

 今日は自らの行いを精算するべく江藤達の元に向かった。決意はあったけれど、恐怖と不安で押し潰されそうな思いで、この道を歩いたのを思い出す。

 今は安心感に満たされて、同じ道を歩けているのは、青野先輩や仲間と呼べる、呼んでくれる人たちのお陰だと実感している。


 自宅に帰って服を脱ぐと、真次郎の脇腹の辺りが痣になっていた。身体中のあちこちが軋んで痛んだし、顔の傷はどうしても目立った。

市村に言われた通り、風呂に入ろうと母屋に行く。あのひと、『美和子さん』には会いたくなかったので、勝手口ではなくて玄関に回ると、玄関脇の夏椿に、少し遅咲きの花が残っていたのだろうか、地面にぽとりと落ちた夏椿の白い花が転がっていた。

 咲いてから一日で散ってしまう夏椿の儚さもあったけれど、いよいよ本物の夏が始まるんだなと、小さな高揚を感じた。頬も緩めたままで玄関を開けた。


「なに真ちゃん、玄関からなんて珍しい」

 顔を会わせたくなかったので、台所を避けて玄関に回ったのに、あいにく扉を開けたところに美佐子がいた。

 真次郎は、緩んでいた頬を、あからさまに固くした。

「なに、あんたその顔」

 最初、顔を会わせた途端に表情を変えたのが、面白くなくて文句を言っているのかと思ったのだ。

「痣になってるじゃないの、口も切れて。いったいどうしたのよ」


 美和子は傷をみようと真次郎に近づいて手を伸ばした。真次郎はその手を払い除けて強く言った。

「なんでもねえよ」

 美和子は一瞬呆気に取られて目を丸くするが、すぐに眉根を寄せ険しい表情を見せた。

「何なのよその態度は、人が心配してやれば」

「だから、何ともないってば」

 真次郎は、今度は声を押さえて言った。美和子が心配などしていない事は分かっていた。ただ傷を見たかったのだ。怪しい怪我をして来た事を騒ぎ立てたいだけなのだ。だから、そうされるのが面倒なので、少しは態度を改めたつもりなのだけれど、しつこく問い質されるのも嫌なので、そのまま廊下を抜けて風呂場へ向かった。

立ち去る真次郎に美佐子が追いかけてまで言ってきた。


「あの子でしょ、あの青野とかって、昌ちゃんの同級生の、アイツにヤられたんでしょ」

 美佐子の言葉には青野先輩に対する嫌悪感が滲んでいた。自分にも何度も向けられた感情なのですぐに分かった。聞いてられない言葉に頭の中で耳を塞ぎ、その場を立ち去る事に集中する。けれど、美和子は執拗に口撃を続ける。

「とんでもない不良だって近所で評判みたいじゃない。あんなクズと付き合ってたら真ちゃんの為に良くないよ」

 嫌悪感で全身に鳥肌が走った。


「ふざけんな、お前が先輩の事を口にするな」

 真次郎は怒鳴り声を上げると、横の棚にあった雑誌を手にすると、廊下の先の美和子に向かって投げつけた。雑誌は手前で壁に跳ね返って美和子の肩に当たった。

「きゃっ」と、短く声を上げた美和子は「あんた、何て事するのよ」と怒声を上げる。

 激昂する美和子を真次郎は睨み付けていたが背を向けた。その背に向けて、美和子のヒステリックな怒鳴り声と、さっき投げた雑誌が飛んで来たけれど、それを無視して風呂場へ入った。


 少しぬるまったお湯を追い焚きしながら湯船に浸かると傷に滲みた。その痛みが今日一日を回想させ、殴られた恐怖も痛みも蘇らせたが、さっきの市村のように、感謝の思いが、その痛みを覆い尽くす。本当に終わったんだなと実感をして、安堵から大きなため息を湯船に落とした。


 とはいえ、気がかりが全て無くなった訳ではない。先輩はああは言っていたけれど、警察の事はやはり気になるし、あの預金口座はどうしたものかと考えてしまう。沢田さんの相光とか、返せる所には返したとしてもかなりの金額が残る。


 先輩たちが自分の為に身体を張って助けてくれた事を考えると胸が熱くなった。世間では先輩たちが、美和子が言ったように思われているのは分かっているけれど、江藤や立川のような連中とは、醸し出してる空気がまったく違うから、一色単に言われたくない。でもまあ、真次郎も最初は違いが分からなかったのだから、世間の人の言い分も仕方ないのかもしれない。ただ強いという事に憧れた。嫉妬かもしれない。だから江藤なんかの言葉に耳を貸してしまったのだ。


 あいつらと先輩たちとは強さの質が違う。力や喧嘩の強さではない強さが、先輩にはあるんだと、真次郎にも今なら分かる。

 だから今は「強くなりたいんじゃなくて、あの人のようになりたい」そう思っていた。

 青野先輩は「お前は強いよ」と言った。その意味は今も分からないままだ。あの言葉は強者が嘲るでも蔑むでも無い。むしろ称賛を含んでいたと素直に受け取れた。だからこそ強者の先輩が弱者の自分に向けた事が、揶揄ったのでなければ何なのだろうか。

 気持ちが落ち着くと、美和子に対しての怒りも消え、流石に雑誌を投げたのは悪かったかなと思える様になった。

顔を会わせたら謝っておいた方が良いだろうかと逡巡する。

 

色々と考えを巡らせていたので、結局は市村の言った通りに、だいぶゆっくりと風呂に浸かった。

「明日は海かあ」と、大きく伸びをして、水着ってどこだったかなあと、記憶を思い起こしながら風呂を出た。


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