今度こそ
ぱちぱちと火の爆ぜる音が雛丸の瞼に響く。そっと目を開ければ小さな草庵の中庭は茜の色から紫紺へと、すっかり日が暮れようとしていた。
「そろそろお休みよ」
この庵で一番年若い、まだ少年と言って差し支えないような僧に声をかけられ、のろのろと顔を上げた雛丸は、小さく頷いて腰掛けていた岩から立ち上がった。
「……まだ帰らないのかい?」
その問いは雛丸を疎んじているというより、本当に帰る家があると信じての善意からくるものだとありありと分かる言い方で、雛丸はこの庵の居心地の悪さをしみじみ思い知らされる。しかしいつまでも甘えるわけにいかないのも確かなのだ。寂しげに微笑んで離れの雑舎に向かう。
――その、途中。
「……?」
本堂の方がにわかに騒がしくなった。小さなざわめきから誰かが来たようだというのはわかったが、こんな小さな草庵に誰が来るというのだろう。
いや、そう言えば二日ほど前にも確か来客があったとか言っていた気がする。その時はちょうど市へお使いに行っていたから詳しくはわからないが……。
「雛菊!」
――聞き間違いだろうか。
「雛菊」
振り返るのが怖い。聞き慣れた声で呼ばれるその名は、自分には到底似合わないと言い聞かせていたはずなのに。気が付けば、そう呼ばれることに幸せを感じていた。
身動きが取れず、立ち止まったままこちらを見ようともしない雛丸の背に清明の震える手が触れると、小さくぴくりと肩が跳ねた。
「……雛菊」
先程火の番を代わった若い僧は驚きと好奇心を隠しきれずにふたりを見ていたが、雛丸が横目で睨むと慌てて視線を逸らす。しかしこんなところで騒ぎを起こす方が悪い。少女はやはり震える手で清明の手をそっと離し「あちらへ」とさらに奥の竹林へ足を向けると、男は神妙な様子で後をついてきた。
「なぜ、こんなところへいらしたのですか」
その声は静かで、先程までの驚きを微塵も感じさせないものになったと雛丸は自分で安堵した。大丈夫だ、大丈夫。――まだ、逃げられる。
「その問いの答えは君自身わかっているのだろう」
それだというのに清明の答えは雛丸の足首を絡め取る。
「君を、探しに――迎えに、来た」
くらり。目の前が一瞬霞む。やめて、と雛丸の心が悲鳴を上げる。そんな優しい言葉をまさかこの男から与えられるなんて。いや、清明の元で過ごすうちに当たり前のように受け止めていたのかもしれない、温かい声音に喉の奥を締め付けられる。自分は優しく扱われるような存在ではないことを目の前に突きつけられるようだった。
「わたくしは、」
乾いた声が雛丸の喉からはがれおちる。ひとつ呼吸を飲み込んで、もう一度。
「……わたくしは、罪を犯しました」
「その美しさと技術を持って左大臣の耳となり多くの官人や貴族を陥れる一助となったことはもう」
「そうではありません!」
思わず叫ぶ雛丸に、清明は布の下で眉を寄せる。雛丸が褥で聞き出した男たちの弱味を利用していた左大臣はもういない。だからもう、誰もこの可哀想な白拍子を責めることなんてできないのだと思っていた。そうではないのか。
次でラストです。