再び、
その報せが届いたのは、朝白む霧がまだ晴れぬ頃。清明の腕にはまだ雛丸が無防備に寝息を立てていた。
「清明様、左大臣邸から遣いの者が来ておりますが……」
報告しに来た女房も、なぜこんな朝早くにと迷惑そうな声音を隠しもせずにどうすべきか判断しかねているようだった。
「さて、こんな時間にまさか雛丸を返せということでもあるまいが……文ではないのか」
「はい、直接のお言伝とのことです」
直接。どういうことだろうか。雛丸を起こさぬようにそっと起き上る。遣いを庭から回らせる間に袍を頭から被って多少の体裁は取れるようにしておく。とはいえこの顔を見せるつもりもないのだから戸を半分下ろしたままなのだ、取り繕うほどでもないのだけれど。
庭に回ってきたのは左大臣邸からいつも文を持ってくる男とは違っていた。息の上がり方からして普段外に遣いに出されるような者ではないのかもしれない。ここにきて何かよほどのことがあったのかとようやく思い至る。
「……清明様?」
不穏な空気に目を覚ましたか、雛丸がそっと身を起こす。と同時に、機微に疎いのだろう遣いの男はようやく落ち着いた呼吸でひとこと、清明と雛丸の耳にとんでもない報せを投げ込んでくれた。
「だ、旦那様……左大臣様が、今朝ほど……お亡くなりになられましたことを、高良刑部卿にお伝えしに、参りました――」
雛丸が左大臣に最後に会った、その、五日後のことであった。
左大臣の喪が開ける頃には清明が心配していた通り、雛丸の姿はすっかりと跡形もなく消えていた。方々に手を尽くし探し求めたが、さすがにもう京の外へと出てしまったか、或いは今度こそ世を捨てて何処かの尼寺にでも篭ってしまったのかもしれない。
彼女は左大臣を愛しているわけではないと言ったが、生きる為の後ろ盾であり恩人であったことは確かなのだ。意に沿わぬことをさせられ続けていたとはいえ、かつての支えがなくなったことでどれほど辛い思いをしているのだろうか、清明には想像もつかない。
(いや、想像くらいはできる)
おそらくは。いや雛丸ひとりがいなくなったところで清明は日々の暮らしに困ることはない。それでも生きることにはすぐに飽いてしまうだろう。今の彼にとっての全ては雛丸なのだ。
(どうしてあの子は私を支えとしてくれないのだ)
答えのわかりきった問を自分の中に投げ込むが、その波紋はやんわりと清明の心を締め付けるばかりだった。
(私は雛菊を、愛してあげられるのに)
信じてもらえないということがこんなに腹立たしく切なく苦しいものだなんて、今まで気付きもしなかった。それはつまりずっとまるで死人のように生きてきたことを改めて思い知らされたということで。
(どんな形であれ、あの子の傍に居なければならない)
雛丸にとっても、清明にとっても、それは絶対に必要なことだった。
「刑部卿」
ふと庭の方から声をかけられる。そちらに視線をやれば、かげり始めた陽によって作られる不自然に長い影が御簾越しに伸びている。
「お探しのお嬢さんを見つけた……と思う」
声の主にしては随分はっきりしない物言いに、清明は眉根を寄せようとして片頬を引き攣らるのみに留まった。
「何処だ」
詳しい事よりも結果が欲しかった。とにかく早く雛丸に会いたかった。
「泉川の下流にある小さな草庵に留まり続ける娘がいると」
「泉川……長谷山へでも行くつもりだったのか?」
なんと呑気なと今度こそ眉を顰めたが、影はいや、と首を振る。
「渡し場から随分離れていたし、川を渡る機会は何度もあったようだが特に渡る様子もなかったらしい。俺も詳しくは聞けなかったが庵の主が言うには、女人がひとり、数日前にふらっとやってきて、しばらく世話になれないかと生気のない顔で頼んできたそうだ」
彼女にとって幸いにも庵の主は金銭を要求するようなことはなく、数人いる僧達に混ざって下働きをして過ごしているようだった。
「……善良な御坊でよかったよ」
吐き捨てるように言うと、そのまま清明は部屋の隅に脱ぎ捨ててあった狩衣を乱暴に引っ被った。
「どこへ?」
わかりきったことを、といつもの笑いで成友に答える。彼も承知で聞いたのだろう。既に厩の方へ身体は向いていた。
「お前の馬は速いのか?」
その問に、今度は成友が同じような笑いで答える番だった。
「俺の趣味をお忘れで?」




