第9話 王太子に見えない男にしてください
『男を惑わす魔女の店』
『伝統ある美容を否定する下賤な店』
流行を商う者たちの影がちらつく悪評は、王都の社交界にじわじわと浸透し始めていた。
サロンの扉に心ない言葉が書かれた紙が貼られるようになって数日。
面白半分に店を覗き込んでくる者や、わざと泥を跳ね上げていく馬車は増えたが、肝心の客の足は鈍っていた。
すっかり日が落ち、夜の闇が王都を包み込んだ頃。
セリーナは一人、静まり返ったサロンの中で道具の手入れをしていた。
ブラシの毛先を洗い、香油の瓶を磨きながら、小さく息を吐く。
(……このままでは、新しいお客様を迎えるどころではありませんね。早急に対策を立てなければ)
コレットやベアトリスたちからの心温まる手紙だけが、今のセリーナの支えだった。
そろそろ店の灯りを落とそうと立ち上がった、その時だった。
カラン、と。
控えめだが、はっきりとした意志を持ったベルの音が鳴り、重い木の扉が開いた。
「夜分にすまない。まだ、開いているだろうか」
低く、よく響く落ち着いた声。
入ってきたのは、目深にフードを被り、地味な灰色の外套を身にまとった大柄な青年だった。
装飾品は一切なく、身なりを崩して町人に紛れようとしているのは一目でわかる。
しかし、セリーナは彼が扉をくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間に、強烈な違和感を覚えた。
(……布地が、良すぎます)
地味な色合いに染められているが、外套が動くたびに生まれるドレープは、最高級の織物でしか出せない重厚な滑らかさを持っていた。
だが、違和感の正体はそれだけではない。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
セリーナが斜めに配置された小机の席を手で示すと、青年は静かに頷き、歩みを進めた。
その足運び。
まったくブレのない体幹。
そして、椅子に腰を下ろす時の、まるで玉座にでも座るかのような優雅で無駄のない所作。
セリーナの彩眼には、彼を包み込むように、深く澄み切った海のような青色が視えていた。
それは、迷いのない強い意志と、生まれ持った圧倒的な気高さを示す色だ。
(この方……自分がどれほど異質な空気をまとっているか、全く気づいていらっしゃらない)
セリーナは内心の驚きを微塵も顔に出さず、温かい紅茶を青年の前にそっと置いた。
無礼にならないよう、最上級の丁寧な所作で応対する。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
青年はフードを目深に被ったまま、ティーカップには口をつけず、まっすぐにセリーナを見た。
フードの奥で、鋭く理知的な瞳が光る。
「人の見え方を変えられる職人がいると聞いて、ここへ来た」
「職人、ですか」
「違うのか?」
「いいえ。魔法使いと呼ばれるよりは、ずっと正確です。私はただ、ご自身の見せ方を取り戻すお手伝いをしているだけですから」
「ならば、頼みたい」
青年は、わずかに自嘲するような響きを含ませて言った。
「私を……目立たない男にしてほしい」
セリーナは、静かに瞬きをした。
「誰にも気づかれず、街を歩きたいのだ。だが、どうやって身なりを崩しても、なぜかすぐに正体が露見してしまう」
「なるほど。目立たない服を着たい、という意味ではありませんね」
セリーナが静かに問い返すと、青年の肩がわずかに動いた。
「あなたは、服を変えたいのではなく、世界からの見られ方そのものを変えたいのですね」
青年は驚いたように息を呑み、それから、深く納得したように頷いた。
「その通りだ。私は、民の本当の声を聞きたい。貴族たちが用意した綺麗な報告書ではなく、裏通りで生きる者たちの本音を、私のこの耳で直接聞きたいのだ」
そこで、青年はわずかに目を伏せた。
「だが……今の姿では、誰も私に本音を言わない。遠巻きにひれ伏すか、おもねるような愛想笑いを浮かべるだけだ」
側近たちからは、無謀だ、危険だと強く止められているのだろう。
彼の声には、深いジレンマと苛立ちが滲んでいた。
セリーナは、顎に手を当てて彼をじっと観察した。
顔の作りの問題ではない。
服の問題でもない。
背筋の伸び方。
視線の置き方。
相手の言葉を待つ時の間の取り方。
そして何より、他人に道を譲られ、ひざまずかれることに完璧に慣れきっている空気。
それらが、彼という人間を高貴な存在として形作ってしまっているのだ。
「……事情は理解いたしました」
セリーナは一つ頷き、まっすぐに青年のフードの奥を見据えた。
「ですが、お客様。見られ方を変えるには、まずあなたの本来の姿を見せていただかなければなりません。そこにある素材を正確に把握できなければ、私にはどのような処方もできませんから」
沈黙が落ちた。
青年はしばらくセリーナの揺るぎない瞳を見つめ返していたが、やがてふっと口元をほころばせた。
「……なるほど。噂通りだ」
青年は両手をフードにかけ、躊躇なく後ろへと跳ね退けた。
その瞬間、薄暗いサロンの中が、ぱっと明るくなった錯覚に陥った。
溢れ出したのは、純金のように輝く見事なブロンドの髪。
そして、王家の血を引く者だけが持つと言われる、深く澄んだ紫水晶の瞳。
彫刻のように整った美貌と、隠しきれない圧倒的な威厳。
「私の名は、アレクシス・ルヴァン」
青年は、静かに告げた。
「私を、王太子に見えない男にしてほしい」
ルヴァン王国王太子、アレクシス。
この国で最も高貴な男が今、悪評にまみれた王都の外れのサロンで、一人の職人に依頼をしている。
セリーナは、一瞬だけ目を丸くした。
しかし、彼女の心に湧き上がったのは、王族を前にした恐れや、ひれ伏したいという衝動ではなかった。
前世から培ってきた職人としての火が、胸の奥で静かに燃え上がったのだ。
(これほどまでに完成されきった、高貴さの塊のような素材を……ただの市井の男に落とし込む。これ以上ないほど、難しく、挑みがいのある仕事ですね)
セリーナの瞳に、仕事人としての鋭い光が宿る。
彼女はゆっくりと立ち上がり、アレクシスに向かって優雅に一礼した。
「承りました。ただし、殿下」
「ただし?」
「これは、服を替えれば済む仕事ではございません。お覚悟はよろしいでしょうか」
アレクシスの紫水晶の瞳が、興味深そうに細められた。
「引き受けてくれるのなら、覚悟はしよう。だが、これだけ身なりを崩しても駄目だったのだ。服を変えるだけで、本当に私が王太子に見えなくなると思うか?」
アレクシスの問いに、セリーナはふふっと小さく笑い、きっぱりと言い放った。
「いいえ。服を変えるだけでは、おそらく無理でしょう。王太子殿下」
「なぜだ?」
セリーナは、王太子である彼を上から下まで、職人の目で見極めるように観察した。
「なぜならあなたは、ただそこに立っているだけで、世界に命令していらっしゃるからです」
予想外の言葉に、アレクシスは一瞬きょとんとし――次の瞬間、声を立てて面白そうに笑い出した。
「立っているだけで命令している、か。ははは、そんなことを私に面と向かって言った者は初めてだ」
アレクシスの紫水晶の瞳が、面白くてたまらないというように光を帯びる。
こうして、悪評の吹き荒れるサロン・ミロワールに、この国で最も隠しようのない、最高の難敵が客としてやって来たのだった。




