第8話 捨てられ令嬢専門サロンと呼ばれまして
王都の社交界において、新しい噂が広まる速度は春の突風よりも早い。
特に、それが婚約破棄された令嬢にまつわるものとなれば、貴族たちの格好の好奇心の的となった。
「ねえ、聞いた? あのセリーナ・マーロウが始めたという、王都の外れにあるお店のこと」
「ええ、もちろん。婚約を破棄された哀れな令嬢たちが、こぞって駆け込んでいるというあの場所でしょう?」
「なんでも、最近では捨てられ令嬢専門サロンなんて呼ばれているらしいわよ」
華やかな茶会の席で、扇で口元を隠しながら囁かれる噂話。
しかし、その噂の中身は、単なる嘲笑や憐れみだけではなかった。
「それがね……あそこへ行った令嬢たち、みんな見違えるように美しくなって戻ってくるそうなの」
「ええ、私も見たわ。あの本ばかり読んでいて陰気だと言われていたエリス様が、銀細工の美しい眼鏡チェーンを揺らして、堂々と殿方と歴史の議論を交わしておられたのよ」
「ふくよかだったベアトリス様も、無理なコルセットを捨てて、温かい蜂蜜色のドレスで本当に幸せそうに笑っておられたわ」
「コレット様に至っては、元婚約者様の好みとはまったく違う、ご自身がお好きな色のドレスを纏って、それはもう凛としておいでだったとか」
サロン・ミロワールの評判は、確実に広がり始めていた。
そこは、流行の顔に無理やり作り変える店ではないらしい。
本人が隠し、恥じていた本来の良さを見つけ出し、その人らしく最も美しく見える形へ導いてくれる。
鏡の前で絶望して泣いていた令嬢が、その店を出る時には、自分自身の足で立ち、心からの笑顔を取り戻しているのだと。
*
しかし、光が強くなれば、それに比例して影もまた濃くなる。
古い価値観に縛られた者たちや、既存の美の規範によって権力や利益を得ている者たちからすれば、セリーナのやり方は、秩序を乱す危険な考えに見えた。
「あそこは、女を男に逆らわせる恐ろしい店だ」
「婚約破棄を助長し、化粧という魔術で人を騙す魔女が店主らしい」
「女に、男から選ばれるための努力を捨てさせ、我儘を助長させているだけではないか」
「貴族の令嬢を、見世物のように飾り立てるなど、正気の沙汰ではない」
白粉を扱う大商会の周辺や、保守的な貴族たちの間からは、そんな悪評が意図的に流され始めていた。
中には、自分たちが捨てたはずの令嬢が美しくなり、称賛されていることに腹を立てた元婚約者たちの逆恨みも、少なからず混じっていたのだろう。
セリーナは、そうした心ない悪評を耳にしても、感情的に反論したり、怒りに任せて声を上げたりすることはなかった。
前世で百貨店の美容部員として、そしてブライダルの現場で、様々な理不尽なクレームや偏見に晒されてきた彼女にとって、他人の無責任な悪意そのものは珍しいものではない。
彼女が何よりも恐れ、心配したのは、その悪評によって、今まさに救いを求めている客たちが、店に足を運ぶのを躊躇ってしまうことだった。
「私が嫌われるだけなら、一向に構いません」
閉店後の静かな店内で、セリーナは帳簿を前に小さく呟いた。
「……けれど、お客様がここへ来ることを恥じるようには、絶対にしたくありません」
セリーナは、客の尊厳と安全を守るため、サロンの運営方針を厳格に整えることにした。
まず、完全予約制の導入。
そして、誰が来店したか、どんな悩みを打ち明けたかという秘密の徹底厳守。
客同士が鉢合わせて気まずい思いをしないよう、来店時間を意図的にずらし、前後の予約の間に十分な余白を設ける。
顧客名簿には、本名ではなく仮名を使うことも認めた。
決してサロンの外で客を待たせることがないよう、扉の内側に小さな待合の椅子も置いた。
また、いきなり施術を受けるのが怖い、まずは話だけ聞いてほしいという者のために、料金を取らずに相談だけを受ける日も設けた。
悪意に怒鳴り返すよりも。
噂に噂で対抗するよりも。
自分の店を、安心して扉を叩ける場所にすること。
それが、セリーナの選んだ戦い方だった。
*
それでも、悪意が物理的な形となって現れることを完全に防ぐことはできなかった。
ある朝。
セリーナがサロンの開店準備をするために店の前に出ると、入り口の重い木の扉や、レンガ造りの壁に、何枚もの粗悪な紙が乱暴に貼り付けられていた。
『魔女の店』
『婚約を壊す悪女』
『粉と油で男を騙すな』
『女は選ばれる努力を忘れるな』
汚い字で殴り書きされたそれらの言葉は、セリーナの仕事そのものを真っ向から否定し、嘲笑うものだった。
セリーナは、しばらく無言で張り紙を見つめた。
彩眼が犯人を教えてくれるわけではない。
この紙を貼ったのが誰なのかも、どこからの指示なのかも、彼女には分からない。
ただ、その言葉を目にした瞬間、自分の胸の奥に、暗く濁った灰色がじわりと広がるのが視えた。
嫉妬。
偏見。
理不尽な怒り。
見下すような優越感。
紙に書かれた言葉を通じて、自分が確かにそれらを浴びているのだと、彩眼は冷たく告げていた。
白粉を扱う商会の差し金かもしれない。
保守派の貴族の差し金かもしれない。
あるいは、面白半分に噂に便乗しただけのならず者の仕業かもしれない。
セリーナは、無言のまま張り紙を一枚ずつ剥がした。
丁寧に丸め、ゴミ箱へと捨てる。
指先が、微かに震えていた。
傷つかないわけではない。
自分自身が否定され、軽蔑されることは、やはり鋭い痛みを伴う。
前世から抱えている、自分は鏡の後ろにいる人間だという思い込みが、さらに重くのしかかってくるような気さえした。
けれど、セリーナはすぐに裏へ戻り、冷たい水で手を洗った。
それから鏡の前に立ち、自分の表情を整える。
「……大丈夫。こんなことで、私の仕事は揺らぎません」
今日予約してくれているお客様が、この心ない言葉を目にする前に片付けられて良かった。
セリーナはただ、それだけを心から安堵した。
*
その日も、一人の令嬢が鏡の前で涙を拭い、新しい自分を見つけて笑顔で帰っていった。
王都の喧騒が遠ざかり、通りの足音もまばらになった夜。
セリーナは、鍵を下ろしたサロンの中で、一人静かに道具の手入れをしていた。
筆の毛先を指先で優しく揃える。
香油の小瓶を柔らかい布で磨く。
粉の蓋をしっかりと閉める。
他人の心に触れ、その見せ方を共に探り出す仕事は、常に細心の注意と集中力を要する。
夜のこの静寂の中で、一つひとつの道具と向き合う時間だけが、セリーナにとって唯一、自分自身の心を平穏にリセットできる大切な時間だった。
コン、コン。
不意に、重い木の扉が控えめにノックされた。
セリーナは、道具を拭いていた手を止めた。
今日の予約は、すべて終わっている。
こんな夜更けに、しかも看板の灯りを落とした店を訪ねてくる者などいるはずがなかった。
(……朝の張り紙の件もあります。警戒した方がいいですね)
セリーナは足音を忍ばせて扉へと近づき、小さな覗き窓から外の様子を窺った。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
質の良さそうな、しかしどこか着古して、わざと目立たないように整えた古書商の外套を身にまとっている。
目深に被った帽子の影で、顔の詳細はよく見えない。
だが、不思議と危険な気配や、朝の張り紙から感じたような濁った悪意は視えなかった。
セリーナは少し迷った後、扉の鍵を外し、警戒を解かないまま少しだけ隙間を開けた。
「……本日の営業は、すでに終了しております。何かご用でしょうか?」
セリーナの静かな声に、青年は一歩下がった。
そして、被っていた帽子をゆっくりと取る。
街灯の淡い光の下に現れたのは、息を呑むほど整った顔立ちをした、二十代半ばほどの青年だった。
夜空のような深い紫水晶の瞳。
月光を受けて柔らかく輝く、淡い金色の髪。
彼は、古書商の若旦那のような崩した身なりをしている。
それなのに、その立ち姿、視線の向け方、そして身に纏う空気には、どうしようもないほどの高貴さが隠しきれずに滲み出していた。
セリーナの彩眼には、彼を包み込む色が、これまでに見たどんな高位貴族よりも深く、静かで、そして重厚な威厳を持ったものとして視えた。
(……只者ではありませんね)
セリーナの職人としての勘が、鋭く警鐘を鳴らす。
青年は、セリーナの警戒を和らげるように、低く、しかしよく響く落ち着いた声で言った。
「夜分に失礼する」
そして、ほんのわずかに困ったような笑みを浮かべる。
「ここでは、人の見え方を変えられると聞いた」




