第7話 鏡に映るのは、誰ですか
翌日の午後。
サロン・ミロワールの重い木の扉が、再び勢いよく開かれた。
「……来たわよ。どうしてもって言うなら、あなたのやり方を聞いてあげないこともないわ」
入り口に立っていたのは、昨日激昂して飛び出していったコレットだった。
腕を組み、顎をつんと上げて威嚇するような態度をとっているが、その足取りはどこかふらついている。
目元には、はっきりと寝不足の隈が浮かんでいた。
帰った後も、セリーナの「その変身は、誰のためですか?」という問いが頭から離れなかったのだろう。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
セリーナは昨日と変わらない穏やかな微笑みで彼女を迎え入れ、斜めに配置された小机の席へと案内した。
温かいハーブティーを差し出すと、コレットは両手でカップを包み込むようにして、小さく息を吐いた。
「さっそくですが、コレット様。こちらの布見本を見て、心が惹かれるものを選んでみていただけますか」
セリーナは机の上に、赤、青、緑、黄など、様々な色相と明度の布見本をグラデーションになるよう並べた。
コレットは布の束をじっと見つめ、ためらいがちに手を伸ばした。
「……彼は、明るい色が好きだったわ。こういう、目を惹くような鮮やかな赤とか、空のような水色とか。それから、流行を知らない女を馬鹿にしていたから、やっぱり今の流行色である真紅がいいのかしら。彼は細くて華奢な女性が好きだったし……」
「コレット様」
セリーナは、淡々と元婚約者の好みを並べ立てるコレットの言葉を、静かに遮った。
「私が伺いたいのは、あの方の好みではありません。コレット様、ご自身のお好きな色です」
「私自身の、好きな色……?」
コレットは瞬きをし、布見本の上をさまよっていた手をぴたりと止めた。
彼女の視線が宙を泳ぐ。
唇が微かに震え、やがてぎゅっと噛み締められた。
「……わからないわ。わからないのよ」
絞り出すような声だった。
コレットの瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
怒りの仮面が剥がれ落ち、そこには傷つき、怯えきった一人の女性の素顔があった。
「彼が好きだと言ってくれる色ばかり選んできたから。彼が好む髪型にして、彼が好む香水をつけて……そうやって、ずっと彼だけの正解を探してきたから。自分が本当は何が好きだったのか、もう思い出せないの」
コレットは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
彼女の痛みが、セリーナの胸に静かに響く。
セリーナの彩眼には、昨日コレットを覆っていた赤黒い怒りの色が薄れ、その奥に沈んでいた重く冷たい灰色の靄がはっきりと視えていた。
「私、本当は彼を取り戻したいわけじゃない。彼が浮気していたことも、私を軽んじていたことも、ずっと前から気づいていたわ。……でも、婚約破棄されて、捨てられた自分が惨めでたまらないの」
コレットの声が、そこで小さく震えた。
「鏡を見ると、選ばれなかった価値のない女が映る気がして……自分を嫌いになりたくない。彼に捨てられた、惨めな自分を消してしまいたいの!」
「……ええ。お辛かったですね」
セリーナはコレットの震える背中にそっと手を当て、ゆっくりと撫でた。
「でも、コレット様。ご自身を消すのではありません。取り戻すのです」
「取り戻す……?」
「はい。誰かに選ばれるための顔ではなく、あなたが、あなた自身のまま息を吸える顔を探しましょう。もう、誰かの正解に怯える必要はありません」
セリーナの深く静かな声が、コレットの心に染み込んでいく。
コレットは涙を拭い、赤く腫れた目で再び布見本を見つめた。
彼が好んだ、明るく軽やかな色はもう見ない。
自分の心が本当に求めている、自分を支えてくれる色を探す。
「……これ」
コレットの指先が、一枚の布をそっと引き抜いた。
それは、流行の真紅ではない。
秋の果実を思わせる、深みのある落ち着いた葡萄色だった。
「私、この深い葡萄色が好き。……なんだか、見ているだけで背筋が伸びる気がするの」
「とても美しいお色です。コレット様の意志の強さを、見事に引き立ててくれるでしょう」
セリーナは微笑み、本格的な仕立てに取り掛かった。
*
顔を分厚い白粉で塗りつぶすことはしない。
コレットの肌が持つ本来の滑らかさを活かし、透明感を引き出す薄い粉を乗せる。
頬には、深い葡萄色のドレスに合う、青みを帯びたローズ色の紅をふんわりとぼかした。
そして何よりこだわったのは、彼女の目元だった。
流行の、男に媚びるような甘い目元を作るのではない。
コレット自身の強さと知性を感じさせる、凛とした眉を描き、まつ毛を美しく上向きに整える。
「最後に、背筋を伸ばしてください。顎を少し引き、まっすぐに前を見据えて。言葉を選ぶ時は、急がなくて構いません。あなたの言葉を、相手に待たせるのです」
セリーナの導きに従い、コレットはゆっくりと目を開けた。
鏡の中にいたのは、誰かの好みに自分を合わせようとして、必死に笑っていた令嬢ではなかった。
深い葡萄色のドレスを纏い、凛とした眼差しで前を見据える、気高く美しい貴族令嬢の姿がそこにあった。
「これが……私……?」
「はい。コレット・サンス子爵令嬢、ご自身です」
コレットは震える手で自分の頬に触れ、そして、ふわりと笑った。
それは、元婚約者に向けたような取り繕った愛想笑いではない。
自分自身の姿を確かめ、ようやく息をついた女性の、柔らかな笑顔だった。
セリーナの彩眼の中で、コレットを縛り付けていた冷たい灰色の靄が、春の日差しを浴びたように少しずつ澄んでいく。
完全な花開きではないかもしれない。
しかし、その色は確かに、彼女自身の意志の強さを表すような、鮮やかで深いローズの蕾をほどき始めていた。
「……ありがとう、セリーナ様。私、もう二度と、他人のためだけに自分を飾ったりしないわ」
「ええ。その言葉を忘れなければ、今日の装いはきっと、あなたを支えてくれます」
コレットは誇り高く顔を上げ、サロンを後にした。
*
コレットが夜会で見せた凛とした姿は、翌日には社交界の話題となった。
深い葡萄色のドレスを纏った彼女は、誰かの好みに合わせて作った笑顔ではなく、自分で選んだ顔で会場に立った。
元婚約者が慌てて声をかけてきた時にも、コレットは取り乱さなかったという。
「コレット、ずいぶん変わったじゃないか。俺に見せつけるために――」
そう言いかけた男に、彼女は一拍置いて、静かに微笑んだ。
「申し訳ございません。私の視界を塞がないでくださる?」
たったそれだけだった。
けれど、その場にいた令嬢たちは扇の陰で小さく息を呑み、やがて誰かがこらえきれずに笑った。
男は顔を赤くし、言葉もなく立ち尽くしたという。
サロン・ミロワールの名と理念は、傷ついた令嬢たちの間で確かな希望として広がり始めていた。
――しかし。
光が強くなれば、当然のように影もまた濃くなる。
『あそこは、女を男に逆らわせる店だ』
『婚約破棄を助長する、気味の悪い魔女の店らしい』
『化粧で男を騙し、良からぬ企みをしているに違いない』
旧来の価値観を重んじる貴族たちや、流行を商う者たちの間から、そんな悪評が意図的に流され始めていた。
*
そして数日後の朝。
セリーナがいつものように開店準備をするため、店の前に立った時だった。
サロン・ミロワールの重い木の扉には、べっとりと泥が塗りつけられ、一枚の紙が乱暴に貼り付けられていた。
『男を惑わす魔女の店、ただちに出て行け』
下手な文字で書かれた悪意の塊を前に、セリーナは微かに目を細め、静かに息を吐いた。




