第6話 その変身は、誰のためですか
エリスやベアトリスが夜会や茶会で劇的な変化を見せたことで、王都の社交界には『サロン・ミロワール』の噂が静かに、だが確実に広まり始めていた。
顔の作りを変えるような魔法の化粧ではない。
けれど、そこに行けば、地味だと蔑まれた者も、太っていると嘲笑われた者も、自分だけの魅力を手に入れて、見違えるように輝き出す。
いつしかこの小さな店は、一部の令嬢たちの間で密かにこう呼ばれるようになっていた。
――捨てられ令嬢専門サロン、と。
「ごきげんよう。ここに、婚約破棄された女を別人のように美しく仕立ててくれる店があると聞いて来たのだけれど」
その日、勢いよくサロンの扉を開けて入ってきたのは、燃えるような赤い髪をした令嬢だった。
コレット・サンス子爵令嬢。
仕立ての良さそうなドレスを着ているが、どこか彼女の雰囲気と噛み合っていない。
そして何より、彼女の瞳にはぎらぎらとした強い光が宿り、頬は興奮と怒りで赤く染まっていた。
「いらっしゃいませ。私が店主のセリーナです。どうぞ、こちらへ」
セリーナは動じることなく、いつものように斜めに配置された小机の席へとコレットを案内した。
席に着くなり、コレットは堰を切ったように早口でまくし立て始めた。
「私、二日前に婚約を破棄されたの。相手は侯爵家の三男よ。理由は、私が流行遅れで、隣を歩くには華が足りないからだって! あんなに彼のために尽くしたのに、彼が選んだのは、頭の中身は空っぽで、ただ流行のドレスを着飾るだけの軽薄な女だったわ!」
コレットの指先は、小机の端を白くなるほど強く握りしめている。
声は怒りで微かに震えていた。
涙の跡はすでに乾ききっている。
悲しみよりも、女としてのプライドを粉々にされたことへの屈辱と、強烈な復讐心が彼女を突き動かしているのは明らかだった。
「だから、私を誰よりも派手にしてちょうだい。王都の最先端の、誰もが振り返るような流行の女に仕立てて。彼が私を捨てたことを後悔して、地べたに這いつくばって泣いてすがるくらいに、完璧に美しい女になりたいの!」
「……彼が後悔するような、完璧に美しい女、ですか」
「ええ! 彼の好みは熟知しているわ。真っ白な肌に、真紅の唇。ドレスは胸元が大きく開いた、豪華なレースのもの。髪は高く結い上げて、真珠を散りばめるの。そうすれば、彼は絶対に私をもう一度見るはずよ!」
セリーナは、静かにコレットの顔を見つめた。
前世で美容部員をしていた頃から、このような瞳をした女性を何度も見てきた。
自分を傷つけた相手を見返すために、相手の好みの型へ、自分を無理やり押し込めようとする女性たちを。
セリーナの彩眼には、コレットの全身から立ち昇る色がはっきりと視えていた。
燃え盛るような赤黒い怒りの色。
しかし、その激しい炎の奥底には、ひどく冷たく、重く沈んだ灰色の靄が固く渦巻いている。
自分を完全に見失い、心が閉ざされてしまっている色だ。
(……彼女は、変わりたいのではありませんね。彼に選ばれなかった自分自身を、完全に消し去ってしまいたいだけです)
セリーナは手元のブラシの毛先を指で軽く整えると、伏せていた目を上げ、まっすぐにコレットを見据えた。
「コレット様。あなたをご希望通り、流行の最先端に仕立て上げることは可能です。白粉で肌を覆い、真っ赤な紅を引き、彼の好む女性像を作り上げる技術は、私にはあります」
「本当!? なら、すぐに……」
「ですが、お断りいたします」
コレットの表情が、一瞬で凍りついた。
「……は? お断り、って……どういうことよ。お金なら払うわ! ここは、捨てられた女を綺麗にする店ではないの!?」
「ええ。当サロンは、お客様がご自身の見せ方を取り戻すための場所です。ですが、今のあなたが望んでいるのは、あなた自身の美しさではありません。あなたを傷つけた方の好みの人形になることです」
セリーナの声は、どこまでも穏やかだった。
それでいて、職人として引くつもりのない芯があった。
「見返したいと思うことは、決して悪いことではありません。怒りも屈辱も、人が立ち上がるための立派な原動力です」
コレットの唇が、かすかに震えた。
「ですが、他人の好みに合わせて自分を作り替えるだけなら、それはあなたを取り戻すことにはなりません。少なくとも、私の仕事としてはお受けできません」
コレットは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なによ、偉そうに! 私の何がいけないの!? 見返したいと思うことも許されないの!? あの男を見返して、這いつくばらせたいと願う私が、間違っているというの!?」
「間違っているとは申し上げておりません。ただ、今のご依頼は、私の職人としての仕事ではお受けできないと申し上げているのです」
「……っ! そんな綺麗事を聞きに来たんじゃないわよ!」
コレットは激しく椅子を押しのけるようにして後ずさった。
これ以上、この何を考えているか分からない女店主と話しても無駄だ。
そう思い、踵を返して扉へ向かおうとした――その時。
彼女の視界の端に、サロンの奥にひっそりと佇む、斜めに配置された大鏡が映り込んだ。
そこには、怒りで顔を赤く歪め、無理に着飾ったドレスの中で肩を怒らせている自分の姿があった。
「あ……」
コレットの足が、床に縫い止められたように止まる。
彼好みの派手なドレス。
彼好みの歩き方。
彼のために作ってきた笑顔。
鏡の中の自分は、少しも自由ではなかった。
必死に誰かの正解にすがろうとして、自分自身の輪郭を失ってしまった女の姿だった。
背後から、セリーナの静かな声が響いた。
「コレット様。その変身は、一体誰のためですか?」
誰のため。
彼のため。
それとも、自分のため。
コレットは鏡に映る自分の姿から目を逸らすことができず、ただ唇をわななかせた。
喉の奥から何かが込み上げてきそうになるのを必死に飲み込み、彼女は逃げるようにサロンの扉を開け放った。
「……もう、二度と来ないわ!」
捨て台詞を吐き残し、コレットは夕闇の迫る王都の街へと駆け去っていった。
バタン、と重い音を立てて閉まった扉を見つめながら、セリーナは押しのけられた椅子を静かに直し、再び道具の手入れへと戻った。
彼女は追わなかった。
扉の鍵を閉めることもしなかった。
(……ご自身の心にある本当の痛みに向き合えた時。その時が、本当の仕上げの始まりです)
セリーナの彩眼には、コレットが去った後の空間に、ほんのわずかだけ、怒りの赤黒い色が剥がれ落ちた残滓が視えていた。




