第5話 ぽっちゃり令嬢と蜂蜜色のドレス
カラン、と控えめなベルの音が鳴り、サロン・ミロワールの扉がゆっくりと開いた。
顔を覗かせたのは、少しふくよかな体型をした令嬢だった。
上等ではあるが、体の線を隠すようなだぼついた暗い色のドレスを着て、自信なさげに肩をすくめている。
「あの……ベアトリス・ロランと申します。お手紙を、差し上げました……」
消え入るような声で名乗った彼女の腕には、可愛らしいリボンがかけられた小さな包みが抱えられていた。
「お待ちしておりました。どうぞ、お掛けになってください」
セリーナが温かく迎え入れ、小机の席を勧めると、ベアトリスはおずおずと包みを差し出そうとし――途中で、はっと気づいたように手を引っ込めた。
「ごめんなさい……これ、私が焼いたお菓子なんですけど……。こんなもの、太るだけですよね。美容のサロンに持ってくるなんて、私、本当に気が利かなくて……」
自嘲するように俯き、包みを隠そうとするベアトリスの手を、セリーナはそっと両手で包み込んだ。
ふっくらとした手には、温かな体温がある。
しかしその指先には、日頃から粉を練り、熱いオーブンと向き合ってきたであろう小さな火傷の痕や、荒れた名残があった。
彼女からは、甘く優しい焼き菓子の匂いが微かに漂っている。
「とても良い香りがします。後で紅茶と一緒に、ありがたく頂戴しますね」
セリーナが微笑むと、ベアトリスは少しだけ安堵したように息を吐いた。
セリーナの彩眼には、ベアトリスを覆う色が視えていた。
本来は人を安心させる温かな蜂蜜色であるはずなのに、今は自己否定の強い、濁った灰色に曇ってしまっている。
温かい茶を一口飲み、ベアトリスはぽつりぽつりと話し始めた。
婚約者だった男からの心ない言葉。
「お前のような太った女と一緒に歩くのは恥ずかしい」と笑われたこと。
彼のために大好きだったお菓子作りをやめ、無理な食事制限をして体調を崩したのに、結局「醜い」と婚約破棄されたこと。
「お願いです、セリーナ様。私を、少しでも細く見えるようにしてください。痩せなければ、私は綺麗になれないんです。それに、令嬢なのに食べるのが好きだなんて……恥ずかしいですよね」
ベアトリスは涙ぐみながら、自分のふくよかな腕をぎゅっと抱きしめた。
セリーナは、静かに首を振った。
「いいえ。食べることも、作ることも、何も恥じることではありません」
「でも……」
「あなたの丸みは、醜さではありません。隠すものでもない。そしてあなたのその手は、美味しいお菓子で誰かを幸せにしてきた、とても尊い手です」
セリーナの言葉に、ベアトリスは目を丸くした。
王都の美容は、痩せていて、肌が白く、流行に沿っていることを正解とする。
彼女自身も、それに囚われていたのだ。
「当サロンは、無理に痩せさせるための場所ではありません。痩せることではなく、あなたがあなた自身を嫌わずに立てる形を、一緒に探しましょう」
*
ベアトリスに合う素材を揃えるため、セリーナは市場へと足を運んだ。
彼女の温かな蜂蜜色を引き立てるための柔らかいシフォン生地と、焼き菓子のような甘さを上品に昇華させるバニラの香油。
だが、贔屓にしている布地屋でも、薬種問屋でも、信じられない言葉を返された。
「悪いね、お嬢ちゃん。ついさっき、金払いのいい使いが来て、めぼしい色の生地をまとめて買っていったんだよ」
「バニラや甘い香りの精油かい? そりゃあ奇遇だね、さっき買われたところだよ」
セリーナは、道の真ん中で小さく息を吐いた。
偶然と片づけるには、あまりにも間が悪い。
王都の外れにある小さなサロンの動向を、誰かが見ている。
それも、ただの悪戯ではない。
素材を先回りして奪えば、仕立ては崩れる。そう考える程度には、こちらの仕事を知っている相手だ。
(……完璧な材料がなければ、お客様を美しく仕立てられないとでも思っているのでしょうか)
セリーナの職人としての闘争心に、静かな火が灯る。
彼女はすぐさま思考を切り替え、別の問屋へと向かった。
*
「目を開けてください」
サロンに戻り、仕立てを終えたセリーナの声に、ベアトリスは恐る恐る鏡を見た。
そして、息を呑んだ。
そこに映っていたのは、無理に体を締め付けて細く見せようとしている痛々しい令嬢ではなかった。
買い占められた絹の代わりにセリーナが選んだのは、上質で空気を含む柔らかな混紡生地だ。
それを幾重にもふんわりと重ねることで、ベアトリスのふくよかな丸みが、まるで包み込むような優しさと安心感を抱かせるシルエットへと変わっていた。
ドレスの色は、温かい蜂蜜色。
首元は無理に隠さず、少し広めに開けることで、彼女の柔らかな肌の質感を活かしている。
手元には、荒れた指先を上品にいたわりつつ、所作を美しく見せる繊細なレースの手袋。
頬には、柔らかい桃色の紅がふんわりと乗せられ、ふくよかな頬の丸みが、温かな愛らしさを放っていた。
「私……これ、私なの……?」
ベアトリスの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
太っている自分が大嫌いだった。
でも、鏡の中にいる蜂蜜色のドレスの女性は、とても温かそうで、優しそうで――大好きなお菓子の匂いがした。
バニラの香油の代わりに、セリーナがオレンジスイートと微かなシナモンを調合して作り上げた、幸せな焼き菓子を思わせる香りだ。
セリーナの彩眼の中で、ベアトリスを覆っていた濁った灰色がふわりと晴れ、陽だまりのような温かい蜂蜜色が、ぱっと花開くように澄み渡った。
「とてもお似合いです。明日の茶会には、ぜひあなたが焼いたお菓子を持っていってください。その香りとドレスが、あなたを最高に魅力的に見せてくれますよ」
*
翌日、王都で開かれた若手貴族たちの茶会。
ベアトリスの周りには、甘い香りに誘われるように、多くの令嬢や青年たちが集まっていた。
「ベアトリス様、この焼き菓子、本当にあなたが? とても美味しいですわ」
「今日のドレス、とても素敵ですね。あなたの優しい雰囲気にぴったりだ」
称賛の言葉に、ベアトリスは頬を染めながらも、堂々と微笑んで答えていた。
そこへ、信じられないものを見るような顔をした男が近づいてきた。
彼女を「太っていて醜い」と捨てた、元婚約者だった。
「ベアトリス……? お前、見違えたな。ようやく俺のために痩せる努力をしたのか?」
相変わらずの、的はずれで傲慢な言葉。
ベアトリスは彼の方を向き、ふくよかな体を無理に縮こまらせることなく、優雅に微笑んだ。
「いいえ。私は痩せてなどいませんわ」
「なに? だが、前よりずっと綺麗に……」
「私は、私を嫌いになるのをやめただけです。美味しいものを食べ、大切な人たちのために美味しいお菓子を焼く。そんな自分自身を、誇りに思うことにしたのです」
堂々としたベアトリスの言葉に、元婚約者は絶句し、周囲の貴族たちは感嘆の溜息を漏らした。
もはや彼女の瞳に、自分を捨てた男への未練など微塵もなかった。
*
その日の夕刻。
サロンで道具の手入れをしながら、セリーナはベアトリスが茶会で大輪の花を咲かせたという噂を耳にしていた。
安堵とともに、セリーナの脳裏には市場での不自然な買い占めの件が蘇る。
(……やはり、動き出しましたか)
誰が仕掛けているのかは、まだ分からない。
けれど、王都のどこかに、この小さなサロンを目障りだと感じている者がいる。
そしておそらく、その相手は美容を商い、流行を握る立場にいる。
セリーナはメイクブラシについた粉を払い落とし、静かに呟いた。
「お客様の肌と誇りを、好きに扱わせるつもりはありません」
その声は小さかった。
けれど、鏡の中のセリーナの目には、確かな怒りが宿っていた。




