第4話 あなたを捨てた方の目が悪いだけです
豪奢なシャンデリアが眩い光を放つ、王宮の夜会会場。
壁際の目立たない位置に立ち、セリーナは静かにその瞬間を見守っていた。
紺色の控えめなドレスに身を包み、まるで壁の装飾の一部のように気配を消している。
その視線の先で、会場の空気がふっと変わった。
入り口の扉が開き、一人の令嬢が姿を現した瞬間、さざ波のように広がっていた歓談の声が止んだのだ。
「あれは……フォード子爵家の、エリス嬢か?」
「嘘でしょう。あんなに美しい方だったかしら……」
令嬢たちが扇の陰で驚きの声を漏らし、紳士たちが思わず振り返る。
人々の視線の中心にいるエリスは、夜空を思わせる深い紺色に銀糸の刺繍が施されたドレスを見事に着こなしていた。
すっきりと伸びた首筋。
光を含んだような肌。
低くまとめられた髪は、彼女の落ち着いた雰囲気を静かに引き立てている。
何より人々を驚かせたのは、彼女がいまだに、あの「地味の象徴」と嘲笑されていた銀細工の眼鏡をかけていることだった。
眼鏡を外したわけではない。
流行の派手な化粧をしたわけでもない。
だが、丸まっていた背筋が伸び、堂々と前を見据えるその姿は、無理に作られた華やかさとは違う、月光のような静かで知的な美しさを放っていた。
「エリス……?」
呆然とした声が響き、人垣を掻き分けて一人の男が進み出てきた。
エリスを「地味で暗い」と切り捨て、婚約を破棄した男爵令息だった。
彼は、別人のように堂々としたエリスの姿に目を奪われ、あからさまな熱を帯びた視線を向けた。
「見違えたよ、エリス。まさか、そこまで美しくなるとは。……俺のために、変わる努力をしてくれたんだな」
エリスは、静かに彼を見た。
男爵令息は、その視線を都合よく受け取ったらしい。
得意げに口元を緩め、さらに一歩近づいてきた。
「それなら、もう一度やり直してやってもいいぞ」
上から目線の、あまりにも自分勝手な言葉。
以前のエリスなら、彼の言葉に萎縮し、目を伏せてしまっていたかもしれない。
しかし、今の彼女は違った。
肩の力を抜き、まっすぐに彼を見据える。
その凛とした姿に、男の方が気圧されたように一瞬言葉を詰まらせた。
「お言葉ですが、私は変わったのではありません」
エリスの声は、無理に張り上げることもなく、しかし会場の静寂の中で透き通るようにはっきりと響いた。
「隠すのをやめただけです。私が、私自身であることを」
「なっ……可愛げのない! せっかく俺が許してやると言っているのに、その陰気な本好きの性格は直っていないようだな!」
「ええ。ですが、あなたが退屈だとおっしゃった私の話を、面白いと言ってくださる方もいるようですので」
そう言って、エリスは静かに視線を外した。
ちょうどそこへ、銀髪に理知的な瞳を持つ青年が歩み寄ってくる。
古文書研究の第一人者として知られる、若き侯爵令息だった。
「フォード嬢。先日の古代魔法陣の解釈について、ぜひあなたの意見を伺いたいと思っていたのです」
侯爵令息は、エリスの眼鏡の銀細工に視線を留め、穏やかに微笑んだ。
「その装い、とてもよくお似合いです。知的なあなたの雰囲気が、いっそう引き立っている」
「光栄ですわ、閣下。あの魔法陣の解釈には、私も少し疑問がございまして……」
エリスは静かに微笑み、侯爵令息のエスコートを受けて歩き出した。
顔を真っ赤にして立ち尽くす元婚約者には、もはや一瞥もくれない。
自らの武器である知性を隠すことなく、それを正当に評価してくれる相手を自ら選び取ったのだ。
壁際で見守っていたセリーナは、その見事な立ち振る舞いに、ふっと目元を和らげた。
(……ええ。あなたは決して、魅力のない方だったわけではありません)
ただ、正しく見る目を持たない相手の前に立たされていただけ。
エリスはもう、鏡の中の自分から目を逸らしていない。
それを確かめてから、セリーナは誰にも気づかれることなく、静かに夜会会場を後にした。
*
その夜を境に、王都の社交界で一つの噂が爆発的に広まった。
婚約破棄され、深く傷ついていた地味な令嬢を、月光のように美しく仕立て上げた店があるらしい。
それも、顔の作りを変えるのではなく、本人の隠された魅力を引き出す不思議な技術で。
その店の名は、『サロン・ミロワール』。
「……サロン・ミロワール、だと?」
ベルナー伯爵家の執務室で、クラウスは苛立たしげに報告書を机に叩きつけた。
最近、社交界でまことしやかに囁かれているその店の主が、自分が捨てたあの「気味の悪い未完成な女」、セリーナ・マーロウだという事実を知ったのだ。
「馬鹿馬鹿しい。粉と油にまみれた商人のような真似事を、もてはやしている連中の気が知れん」
クラウスは毒づきながら、隣でティーカップを傾けている新しい婚約者、ジゼルに目を向けた。
彼女は今日も、流行の最先端を行く鮮やかな真紅のドレスに身を包み、むせ返るような薔薇の香油を漂わせている。
それが「華やかで完成された女」の証だと信じているクラウスだったが、ふと、ジゼルの首元で不自然に浮いている白粉の厚みに目が留まった。
(……なんだ? 少し、厚すぎないか……?)
あの夜会で噂になったという、自然な透明感を持つエリスの姿が脳裏をよぎる。
クラウスが微かに眉をひそめた瞬間、ジゼルはぴくりと肩を震わせ、扇で顔の下半分を隠した。
もしここにセリーナがいれば、彼女の彩眼には、ジゼルの全身から立ち昇る薄紫色の靄がはっきりと視えていただろう。
不安と焦燥の色だ。
「……ただの物珍しさだ。あんな気味の悪い店、すぐに誰も見向きもしなくなるさ」
クラウスは自分に言い聞かせるように呟き、苛立ちを誤魔化すように冷めた紅茶を喉に流し込んだ。
*
翌朝。
朝日が差し込むサロン・ミロワールで、セリーナは道具の手入れを終え、ポストに届いていた一通の手紙を開いた。
香水も焚き込められていない、素朴で少し皺の寄った便箋。
そこに震えるような丸い文字で、こう綴られていた。
『突然のお手紙をお許しください。私は、太っているから醜いと婚約破棄された者です。私のような女でも、あなたのサロンに行けば、綺麗になれるのでしょうか……』
差出人は、ベアトリス。
セリーナは手紙を静かに胸に当て、柔らかく、しかし確固たる仕事人の眼差しで宙を見つめた。
「ええ。お待ちしておりますよ。あなたの本当の美しさを、探しに行きましょう」




