第3話 地味令嬢は、月光のように美しい
「さあ、中へどうぞ」
セリーナは静かな声で促し、小柄な令嬢――エリス・フォード子爵令嬢を店内へと招き入れた。
エリスは怯えた小動物のように肩を縮こまらせ、おずおずと足を踏み入れる。
その目元は痛々しいほど赤く腫れ上がり、頬の肌は涙を拭いすぎたせいで乾燥していた。
セリーナは、彼女をすぐに大鏡の前へは連れて行かなかった。
斜めに配置された小さな丸机の席を勧め、温かいカモミールティーを淹れる。
そして、清潔で冷たい布をそっとエリスの目元に当てた。
「まずは、少し目を休ませましょう。泣き疲れた熱を取らないと、後で痛みますから」
「あ……ありがとうございます……」
押し付けることのないセリーナの静かな気遣いに、エリスの強張っていた肩の力がわずかに抜ける。
セリーナには、エリスの輪郭を覆うように、濁った灰色の靄が視えていた。
彩眼が示すその色は、心を固く閉ざし、自己否定の底に沈んでいる状態を表している。
温かい茶を一口飲み、少し落ち着きを取り戻したエリスは、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
婚約者からの一方的な婚約破棄。
理由は、「本ばかり読んでいる陰気な女」「地味でつまらない」「俺の隣に立たせるには暗すぎる」という、心ない言葉の数々だった。
「私、ずっと自分が社交界に向いていないことは分かっていたんです。彼が好むような、明るくて華やかなドレスも似合わないし、気の利いたおしゃべりもできない。……だから、捨てられて当然だったんです」
エリスは両手で顔を覆い、絞り出すように言った。
「お願いです。私を、別人のように変えてください。この眼鏡を外して、髪も流行の明るい色に染めて、鮮やかなドレスを着て……そうすれば、少しは彼を見返せるでしょうか。私が地味でつまらない女じゃないって、証明できるでしょうか」
悲痛な願いだった。
自分を捨てた男の価値観に合わせて、自分自身を完全に消し去ってしまいたいという絶望。
セリーナは、エリスの手をそっと包み込み、はっきりと告げた。
「……いいえ。私は、あなたが眼鏡を外せば綺麗になる、とは申しません」
「え……?」
「あなたの知性を、誰かの心ない言葉のために隠す必要はありません。ただ、その美しい知性が、伏し目と丸まった背中の奥に隠れてしまっているだけです」
セリーナは立ち上がり、エリスの手を引いて、夕闇が迫る窓際の鏡の前へと導いた。
椅子に座らせ、エリスの背中の中心、肩甲骨の間にそっと手を当てる。
「息を吸って。そして、背中にある私の手を押し返すように、肩を開いてください」
エリスが言われた通りに姿勢を正すと、それだけで首すじがすっきりと伸び、沈んでいた胸元が開いた。
「当サロンは、顔を変える場所ではありません。あなたの見せ方を取り戻す場所です。別人になるのではなく、あなた自身の武器で立つための装いをしましょう」
セリーナの手が、正確で柔らかな動きで滑り出す。
まず、乾燥した肌にたっぷりと化粧水を乗せ、ラベンダーの香油で肌を柔らかく解きほぐす。
王都で流行している、欠点を隠すための分厚い白粉は一切使わない。
代わりに、微細な真珠の粉を混ぜた特製の薄い粉を、光が集まる頬の高い位置にだけそっと乗せた。
それだけで、エリスの肌は内側から光を含んだような透明感を帯びる。
次に、重く見えていた長い髪を丁寧に梳き、後れ毛を残さずに低い位置で上品にまとめる。
華美な装飾は避け、彼女の華奢な首のラインを静かに引き立てた。
唇には、強い真紅ではなく、本来の血色をわずかに引き立てる程度の、淡い薔薇色の紅を引く。
「目を開けてください」
セリーナの声にはっとしたエリスは、鏡の中の自分を見て息を呑んだ。
そこにいるのは、流行の派手な令嬢ではない。
しかし、透き通るような肌と、知性を感じさせる端正な佇まいを持つ、静かで美しい女性だった。
セリーナが用意した、夜空のような深い紺色に銀糸の刺繍が施されたドレスが、エリスの静かな雰囲気をすっと引き立てている。
「最後です」
セリーナは、小机の上に磨き上げられた銀細工の眼鏡と、繊細な銀のグラスチェーンを置いた。
「外して別人になるか。それとも、あなたの知性の象徴を、最高の装飾として纏うか。……エリス様、ご自身でお選びください」
エリスは震える指先で、自分の眼鏡に触れた。
地味だと嘲笑われた原因。
けれど、たくさんの愛する物語の文字を追ってきた、大切な相棒。
エリスは決意を込めた瞳で眼鏡を手に取ると、カチャリと音を立てて身につけた。
銀のチェーンが、紺色のドレスの上で上品な光を放つ。
その瞬間だった。
セリーナの彩眼を通して見えていた、エリスを覆う濁った灰色の靄が、ふわりと晴れた。
代わりに現れたのは、澄み切った夜空に輝く、月光のように美しい淡い銀色。
彼女が、彼女自身を心の底から受け入れ、誇りを取り戻した瞬間にだけ花開く色だ。
(……美しい色。見事な仕上がりです)
セリーナは満足げに目を細めた後、ふと鏡の隅に映る自分自身の姿を見た。
灰茶色の髪。
彼女の目には、他人の色はこれほど鮮やかに視えるのに、自分自身の感情の色だけは、いつまで経っても視えることがない。
セリーナは小さく息を吐き、その思考を意識の底へ沈め、仕事人の顔に戻った。
「素晴らしい選択です。声は無理に大きくしなくて構いません。あなたの静けさは、最大の魅力です。自分を大切に扱ってくれる相手だけを選んで、お話しなさい」
「はい……!」
エリスの表情には、もう先ほどの怯えは欠片もなかった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、知性を宿した瞳で前を見据えている。
「セリーナ様。私、これから王宮の夜会へ向かいます。彼が、新しい婚約者を連れて出席する夜会へ」
「ええ。最高の舞台ですね」
セリーナは、入り口の扉を開け放ち、夜の闇が降りた王都の街並みを指し示した。
「では、行きましょう。あなたを地味だと言った方々に、気高い月の光を見せに」




