第2話 王都の外れに、鏡のサロンを開きます
翌朝、王都の空が白み始めると同時に、セリーナは古い店舗の重い鎧戸を押し開けた。
ギギギ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げ、冷たく澄んだ朝の空気が流れ込んでくる。
差し込んだ朝日が、宙を舞う分厚い埃をきらきらと照らし出していた。
「……まずは、徹底的な掃除からですね」
セリーナは袖を捲り上げ、手ぬぐいで髪を覆うと、迷うことなく水桶と雑巾を手に取った。
床板の汚れを削り落とすように磨き上げ、壁の煤を払い、曇りきった窓ガラスを透き通るまで拭きあげる。
何年も見捨てられていた空間が、彼女の手によって少しずつ呼吸を取り戻していく。
最後に、部屋の奥に鎮座する身の丈ほどもある大鏡の埃を、柔らかい布で丁寧に拭き取った。
鏡面が本来の輝きを取り戻し、朝日を反射して店内を明るく照らす。
一通りの清掃を終えたセリーナは、額の汗を拭いながら、空間全体を職人の目で見渡した。
美容において、光は何よりも重要である。
薄暗い部屋や、揺らめく蝋燭の灯りの下では、肌の本当の色も、微細なくすみも正確には見抜けない。
自然光がどのように入り、顔にどう影を落とすか。
それを計算しなければ、望んだ仕上がりには届かない。
セリーナは大鏡の位置を微調整し、窓からの光が直接顔に当たりすぎないよう、少し斜めに配置した。
真正面から容赦なく光を当てる鏡は、美しさを確認するのには向いている。
けれど、自分の容姿に傷ついている者を、ひどく怯えさせてしまうことがある。
さらに、カウンセリング用の小さな丸机と椅子を、鏡と向かい合わせにならないよう、やはり斜めの位置に設えた。
(お客様の本音というものは、鏡を直視している時ではなく、ふと視線を逃がした場所にこそ、こぼれ落ちるものですから)
セリーナが前世で学んだ鉄則だ。
傷ついた客席に座る者に最初にするべきことは、顔に粉を乗せることではない。
まずは、彼女たちの抱える痛みと望みを、丁寧にすくい上げることなのだ。
*
午後、セリーナは道具を調達するために市場へ出向いた。
王都の中心部にある、貴族御用達の華やかな化粧品店には目もくれない。
彼女が足を向けたのは、庶民が行き交う裏通りの薬種問屋や、中古の道具屋、そして布地屋だった。
現在の王都の流行は、ひたすらに白く塗り隠すこと。
唇や頬を濃く赤く染めること。
そして、むせ返るような強い薔薇の香油を纏うことだ。
だが、セリーナが求めるものは違った。
肌の欠点を分厚く隠すための白粉ではなく、微細な雲母が混ざり、光の反射で肌を美しく見せるためのきめ細かい粉。
強い薔薇の香りではなく、嗅いだ者のこわばった肩の力をふっと抜かせるような、カモミールやラベンダー、柑橘系の穏やかな精油。
そして何より時間をかけたのが、布地屋の端切れコーナーだった。
セリーナは、赤、青、緑、黄といった様々な色の布見本を、色相と明度、彩度ごとに細かく選別して買い集めた。
「お嬢ちゃん、そんな切れ端ばかり集めてどうするんだい? 今はとにかく、鮮やかな真紅か、純白の絹が流行りだぜ」
「ええ、知っています。ですが、布の色が人に合わせるべきであって、人が布の色に合わせる必要はありませんから」
不思議そうな顔をする店主に微笑み返し、セリーナは布の束を受け取った。
この世界にはまだ、前世でいうところの「似合う色を体系的に選ぶ」という考え方がほとんど存在しない。
同じ赤でも、青みを含んだ赤と黄みを含んだ赤では、顔の下に当てた時の肌の透明感や、瞳の輝きが劇的に変わる。
流行だからと自分に合わない色を無理に身につけ、本来の魅力を殺してしまっている令嬢が、この王都にはどれほど多いことか。
この多様な色の布見本こそが、セリーナの大切な武器となる。
*
店の入り口に、小さな木の看板を掲げた。
『サロン・ミロワール』
――あなたが、あなたを取り戻す場所。
開店初日。
セリーナは、装飾のないシンプルな紺色のワンピースに身を包んでいた。
灰茶色の髪は後れ毛ひとつなく後ろでまとめ、爪は短く、なめらかに整えられている。
男の目を惹くための服ではない。
これは、お客様を美しく仕立て上げるための、彼女にとっての仕事着だった。
ブラシの毛先を整え、香油の瓶を磨き、色とりどりの布見本をグラデーションになるよう机に広げる。
しかし、客は来ない。
午前が過ぎ、昼が過ぎ、太陽が西へ傾き始めても、店の扉が開くことはなかった。
(……当然ですよね。王都の外れの、こんな怪しげな店に、令嬢が一人で入ってくるわけがありません)
セリーナは小さく息を吐き、少しだけ沈んだ気持ちを落ち着かせるように、布見本の並びをもう一度整え直した。
焦っても仕方がない。
必要としてくれる人は、きっといる。
そう思おうとした、その時だった。
夕日が長く伸び、店内が茜色に染まり始めた頃。
トントン、と。
消え入るような、控えめなノックの音が響いた。
「はい、開いておりますよ」
セリーナが扉を開けると、そこには深いフードを目深に被った小柄な令嬢が立っていた。
恐る恐るフードを下ろした彼女の顔を見て、セリーナの目は瞬時に細められた。
分厚いレンズの銀細工の眼鏡。
その奥にある目は、一晩中泣き明かしたように真っ赤に腫れ上がっている。
ひどく自信のなさそうな丸まった背中。
胸元でドレスの布地を白くなるほど強く握り締めた指先。
――可哀想に。ひどく傷ついている。
それが、普通の人間が抱く感想だろう。
しかし、前世から染みついたセリーナの職業病は、一切の感傷を許さなかった。
(……泣き腫らした目元の赤みと腫れ。肌は乾燥して粉を吹いている。眼鏡のフレームが骨格に対して少し重すぎる。今の斜陽の光では、彼女の本来の肌色よりワントーン暗く見えてしまう。座らせるなら、窓から少し離れたあの椅子ですね)
冷たいのではない。
傷つき、今にも壊れそうな人を前にした時、中途半端な同情で一緒に顔を歪めることは、プロフェッショナルの仕事ではない。
相手を救うために、今すぐ必要なことを探り出す。
それが、彼女なりの誠意だった。
令嬢は、怯えたような目でセリーナを見上げ、震える声で絞り出すように言った。
「ここは……私のような、陰気だと婚約破棄された女でも、綺麗になれる場所ですか……?」
その言葉の端に滲む絶望を、セリーナは静かに受け止めた。
そして、身をかがめ、令嬢の固く握り締められた冷たい手を、優しく包み込んだ。
「もちろんです」
セリーナの声は、どこまでも穏やかで、揺るぎなかった。
「ただし、あなたを捨てた方のためではありません」
令嬢が、弾かれたように顔を上げる。
夕日の光を受けた大鏡が、店内の奥で静かに輝いていた。
「あなたが、あなた自身の姿を取り戻すために。さあ、中へどうぞ」




