第1話 「地味な女はいらない」と婚約破棄されました
ベルナー伯爵家の豪奢な応接室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
大理石のテーブルに置かれた最高級の紅茶は、すでに湯気を立てることもなく冷めきっている。
一口もつけられていないそれは、向かいに座る男が「茶を飲むような和やかな時間を過ごす気はない」という意思表示でもあった。
「お前のような女を、ベルナー伯爵家の妻に迎える気はない。婚約は破棄させてもらう」
伯爵家の次男であるクラウスは、冷ややかな声でそう言い放った。
金糸を編み込んだような見事なブロンドに、整った顔立ち。王都でも有数の美男子と持て囃される彼は、いま、目の前に座る婚約者――セリーナを、汚れたものでも見るかのような目で見下ろしている。
セリーナは、膝の上でそっと両手を組んだ。
短い爪は丸く整えられ、灰茶色の髪は後れ毛ひとつなく低い位置でまとめられている。淡い灰青色のドレスは上質な絹だが、流行の過剰なフリルも、目を惹くような宝石もあしらわれていない。
彼女は表情を変えることなく、ただ静かに問い返した。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「理由? 決まっているだろう。気味が悪いんだよ、お前は」
クラウスは顔をしかめ、心底不快そうに吐き捨てた。
「夜会に出れば、他の令嬢たちの肌の色や、使っている香油ばかりをじろじろと観察している。茶会では、夫人たちの白粉の浮き具合や顔色を穴のあくほど見つめている。その目はまるで、品定めをする下賤な職人のようだ」
「私はただ……」
「口答えするな。貴族の令嬢が粉や油に固執するなど、商人か使用人のやることだ。だいたい、お前は自分が男からどう見られているかを少しでも気にしたことがあるのか?」
クラウスの言葉には、確固たる優越感と、古い価値観への絶対的な信頼が滲んでいた。
「女というものは、男の隣で美しく咲く花であるべきだ。男の顔色を窺い、可愛げを見せ、自分がいかに愛されるかを気にするのが女の務めだろう。それなのにお前は、他人の顔色ばかりを職人のように観察し、自分自身は流行の白粉一つ塗ろうとしない」
クラウスの視線が、セリーナの落ち着いたドレスと、装飾の少ない首元を舐めるように動く。
「確かに清潔ではある。顔立ちも悪くはない。だが、我が伯爵家の隣に立たせるには、あまりにも華がない。お前は女として未完成なんだよ、セリーナ。地味で、気味の悪い未完成品だ。私にはもっと、男を立てる可愛げのある、完成された女が相応しい」
未完成。
その言葉が落ちた瞬間、セリーナの脳裏に、遠い過去の記憶がふっと蘇った。
――美容部員。ブライダルヘアメイク。
前世の彼女は、鏡を見ることを怖がっていた女性たちが、自分の手による「仕上げ」の後に、花が綻ぶように笑う瞬間を何よりも愛していた。
誰かの晴れ舞台を裏から支え、自分自身の晴れ舞台は来ないまま、過労で倒れ人生を終えた。
自分はいつだって、鏡の後ろの人間だ。
そういう諦めが、今のセリーナの根底にも深く根付いていた。
「……そうですか」
セリーナは静かに目を伏せた後、まっすぐにクラウスを見据えた。
彼には理解できないのだ。
美容とは、男に選ばれるために己を偽る鎧ではないということが。
「美容は、男に媚びるための飾りではありません。人が、その人自身の尊厳を取り戻すための技術です。それを『気味が悪い』と切り捨てるのであれば、これ以上申し上げることはございません」
クラウスは鼻で笑った。
敗者の負け惜しみにしか聞こえなかったのだろう。
「人を見る目と、流行を見る目は別物です。クラウス様、あなたには、そのどちらも足りなかったようですね」
「最後まで可愛げのない女だ。さっさと出て行け」
一礼し、応接室を出たセリーナは、廊下で豪奢なドレスに身を包んだ令嬢とすれ違った。
ジゼル。
おそらく、クラウスが「完成された女」として見初めた相手だ。
「あら、セリーナ様。お可哀想に。でも仕方ありませんわよね。クラウス様には、私のような華やかな女性が相応しいのですから」
ジゼルは勝ち誇ったように扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
セリーナの目には、ジゼルの姿がひどくちぐはぐに映っていた。
首元でくっきりと浮いた流行の白粉。むせ返るほど強い薔薇の香油。そして何より、身につけた大ぶりなエメラルドの輝きが、彼女自身の美しい琥珀色の瞳の魅力を殺してしまっている。
さらに、その胸元には薄紫色の靄が揺れていた。
前世から引き継いだのか、この世界に生まれてから得たものなのか、セリーナには人の感情が色として視える。
薄紫は、不安と焦燥。
彼女はクラウスの愛を繋ぎ止めるため、必死に自分を偽り、武装しているのだ。
だが、セリーナは何も言わなかった。
彼女はまだ、自分の客ではないからだ。
*
「この面汚しが! 伯爵家から婚約破棄されるなど、我が家の恥だ!」
実家に戻ったセリーナを待っていたのは、父親からの激しい罵声だった。
弁明の機会すら与えられず、彼女は勘当を言い渡された。
手切れ金代わりに投げつけられたのは、王都の外れ、貴族街と庶民街の境界にあるという、古い空き店舗の権利書一枚だけだった。
馬車にも乗らず、手荷物一つでたどり着いたその場所は、かつて仕立て屋だったのか、ひどく埃をかぶった寂れた建物だった。
重い木の扉を押し開けると、かびた匂いと淀んだ空気が鼻をつく。
薄暗い店内を見渡したセリーナの目は、部屋の奥に布を被せられて置かれた、背丈ほどもある大きな姿見に吸い寄せられた。
そっと布を引きずり下ろす。
くすんだ鏡面に、長旅で少し疲れた自分の姿が映った。
灰茶色の髪。
淡い灰青のドレス。
未完成と嘲笑われた姿。
セリーナは、自分に似合う色が何なのか、知識としては理解している。骨格に合うドレスの形も、肌色を活かす薄化粧の手法も、頭に入っている。
しかし、彼女は前世から今まで、自分自身を「客席」に座らせたことがなかった。
「……主役には、向かない色ですね」
鏡の中の自分に向かって、ぽつりと呟く。
もし目の前にいるのが自分の客なら、その言葉を絶対に否定しただろう。
あなたには、あなたの美しさがある。
そう言うはずだ。
だが、自分自身にはまだ、その言葉をかけてやることができなかった。
セリーナはふっと息を吐き、ドレスの袖を捲り上げた。
瞳から迷いが消え、仕事人としての鋭い光が宿る。
まずはこの店を清掃し、道具を揃えなければならない。
誰かが、自分を取り戻す場所を作るために。
「なら、ここを始まりにしましょう」
埃まみれの床に一歩を踏み出す。
他人は誰よりも美しく仕立て上げるこの女が、自分の灰茶色の髪だけは、まだ一度も仕立て直そうとしないことを、この世界の誰も知らない。




