第33話 戻らない令嬢たち
王国印象顧問に就任してからも、セリーナの日常が劇的に変わることはなかった。
相変わらず、王都の外れにあるサロン・ミロワールの店主として、一人ひとりの客の肌や髪と向き合う日々。
ただ、王宮での仕事が増えたこと。
そして、サロンに届く手紙の数が、かつての何倍にも膨れ上がったことだけが違っていた。
その日の午後。
セリーナは、芳醇な紅茶の香りが漂う店内で、届いたばかりの手紙の束に目を通していた。
それは、彼女が自分自身の見せ方を取り戻す手伝いをした、かつての客たちからの近況報告だった。
まずは、エリスからの手紙。
『――先日、王立図書館の古文書研究会で、新しい論文を発表いたしました。その際、ある若き侯爵令息の方から、あなたの視点は非常に興味深く、話していてまったく退屈しない、とお声がけをいただいたのです。……私の話を退屈だと言わない方が、世の中にはいるのですね』
美しい銀色の眼鏡チェーンを揺らすエリスの姿を思い浮かべ、セリーナはふっと目元を和ませた。
彼女の元婚約者は、知性と美しさを兼ね備えたエリスの現在の姿を知り、何度も復縁を迫る手紙を送ってきているらしい。
しかし、彼女はそれらを未開封のまま送り返しているという。
彼女の視線はもう、過去の狭い世界には向いていなかった。
次は、ベアトリスからの手紙だった。
『――来月、王都の目抜き通りに、小さな菓子店を開くことになりました! 私の作ったお菓子を美味しいと言ってくださる方々のために、私はこれからもずっと、この手で焼き菓子を作り続けます』
元気な文字で綴られた手紙には、新しく開発したという蜂蜜と木苺のタルトの試作品が添えられていた。
彼女の丸みを見苦しいと責めて捨てた男は、今頃、彼女が引き寄せる豊かな人脈と商才を失ったことをひどく後悔していることだろう。
だが、ベアトリスはもう、彼に自分を証明する必要などない。
彼女はただ、自分の作るものを喜んでくれる人のところへ歩き出していた。
コレットからの手紙は短かった。
けれど、そこには揺るぎない芯の強さが滲み出ていた。
『――鏡を見る時、あの人の顔色を思い出さなくなりました。今度の茶会には、私が一番好きな、深い葡萄色のドレスを着ていこうと思います』
男の好みに自分を切り刻んで合わせる人生は、もう終わった。
彼女は、自分のために自分の色を選ぶ喜びを、完全に自分のものにしていた。
そして、リディア。
『――来週から、辺境と王都を結ぶ外交特使として、騎士団に同行することになりました。やはり私は、白粉で顔を隠すより、太陽の下で堂々と生きる方が性に合っていますわ』
力強い文字からは、辺境の風のような清々しさが伝わってくる。
彼女を野蛮だと切り捨てた王都の貴族たちは、今や彼女の堂々たるカリスマ性の前に、態度を改めるしかない。
そして、王宮や神殿からも定期的に良い知らせが届いていた。
イザベラ王妃は、無理な若作りをやめたことで、逆に圧倒的な威厳と美しさを取り戻した。
王の愛妾候補は、早々に実家へと帰されたという。
聖女ミレイユは、神殿の古いしきたりを少しずつ変革し、血の通った言葉で民の心を救い続けている。
勇者レオンも、剣の修練の合間に、堂々と美しいドレスの仕立て屋へ足を運ぶようになっているらしい。
(皆様、誰も元の場所へは戻らなかったのですね)
手紙を読み終えたセリーナは、心からの安堵と誇らしさを込めて、小さく息を吐いた。
婚約破棄され、自尊心を傷つけられた令嬢たち。
彼女たちは皆、セリーナの技術と鏡によって、本来の美しさを取り戻した。
自分を捨てた男たちは、後悔し、復縁を求めた。
しかし、彼女たちは誰一人として、その手を取ろうとはしなかった。
本当の勝利とは、自分を傷つけた相手に勝って、元の場所へ君臨することではない。
自分を傷つけた相手の顔色など、もうどうでもよくなるほど、自分自身の人生を愛せるようになること。
元の場所へ戻らなくてよくなることこそが、彼女たちの勝利なのだ。
*
「セリーナ。そろそろ夕暮れだが、まだ仕事か?」
入り口のベルが鳴り、アレクシスがサロンに顔を出した。
王太子としての激務の合間を縫い、彼は時間が許す限り、こうしてセリーナのもとを訪れてくれる。
セリーナは、手紙を箱に丁寧にしまいながら、穏やかに微笑んだ。
「ちょうど、皆様からのご報告を読み終えたところです」
「そうか」
アレクシスは、手紙の束を見て、少しだけ表情を和らげた。
「クラウス・ベルナーも、今頃は地方の領地で、逃したものの大きさを嘆いていることだろうな」
白粉商会の後ろ盾を失ったベルナー家は、王都での影響力を完全に失った。
クラウスは地方へ、事実上の左遷となったらしい。
彼と婚約していたジゼルがその後どうなったのか、詳しい話はセリーナの耳には入っていない。
ただ、数日前の雨の夕暮れ時。
サロン・ミロワールの看板を、フードを深く被った女性が、ひどく不安げな、迷うような視線でじっと見つめていたのを、セリーナは窓越しに見ていた。
あれはおそらく、ジゼルだったのだろう。
しかし、セリーナは声をかけず、追いかけることもしなかった。
自分自身の見せ方を取り戻すという戦いは、本人が心の底から変わりたいと望まなければ、決して始められない。
本人が望んだ時だけ、このサロンの扉は開く。
それが、サロン・ミロワールの決まりだった。
そして、もう一人。
王宮の牢へ移送される前、ヴェロニカ・ダルクールを乗せた護送馬車が、サロンの前の通りを通りかかったことがあった。
鉄格子の隙間から、ヴェロニカはサロン・ミロワールの小さな看板を一瞥した。
その瞳にどんな感情が浮かんでいたのか、セリーナには分からなかった。
彼女はただ、何も言わずに通り過ぎていった。
ヴェロニカもまた、いつか自分自身の呪いを解ける日が来るのかもしれない。
それは、セリーナの与り知らぬ、遠い未来の話だ。
*
「さて、今日の営業は終わりかな」
アレクシスが、少しだけ楽しげに言った。
「もしよければ、この後少し……」
「申し訳ありません、殿下」
セリーナは、申し訳なさそうに予約帳を開いた。
「実はこの後、最後にご予約のお客様がいらっしゃるのです」
「そうか。では、私は壁際で邪魔にならないようにしていよう」
「お帰りにならないのですか?」
「君の仕事を見るのが、私の一番の楽しみだからな」
セリーナは、少しだけ困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
その直後だった。
カラン、と。
今日最後のベルの音が鳴り、重い木の扉がゆっくりと開かれた。
そこに入ってきたのは、豪奢なドレスを着た貴族の令嬢でもなければ、王宮の使いでもなかった。
粗末な木綿の服を着た、腰の曲がった年老いた庶民の女性。
彼女は、王太子であるアレクシスの姿には気づいていない。
ただ、眩しいものを見るように、サロンの美しい内装と大鏡を見つめ、深々と皺の刻まれた顔をほころばせた。
「あ、あのう……」
老婦人は、おずおずと口を開いた。
「ここは、どんな女でも、自分に似合う姿を見つけてくれるお店だと聞いたんじゃが……」
彼女は、節くれだった手を胸元で握り締める。
「こんな年寄りの婆さんでも、お願いできるじゃろうか?」
セリーナは、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
そして、これまでで一番美しく、温かい微笑みを浮かべる。
アレクシスもまた、壁際へ静かに下がり、職人の邪魔をしないように、その光景を見守った。
「いらっしゃいませ」
セリーナは、年老いた女性の手を優しく取った。
「当サロンは、ご自身の見せ方を取り戻したいと願う、すべての方のための場所です」
そして、斜めに配置された小机の特等席へと案内する。
「さあ、おかけください」
老婦人は、おそるおそる椅子に腰を下ろした。
セリーナは、その前に静かに立つ。
「あなたの人生を、一番美しく仕立てましょう」




