第32話 王国印象顧問
王都の歴史を塗り替えた百花夜会の熱狂から、数日が過ぎた。
あの一夜が残した余波は、とどまるどころか、日に日に大きなうねりとなって王国中に広がっていた。
ヴェロニカ・ダルクールをはじめとする白粉商会の幹部たち、そして宰相補佐オルドは正式に捕縛された。
彼らが長年行ってきた毒物混入や市場の独占、肌荒れ被害の組織的な隠蔽といった不正の数々が、王太子直属の監査役と近衛の調査によって、次々と白日の下に晒されている。
絶対的だった白粉の権威が崩壊した王都の社交界では、今、静かで確実な変化が起きていた。
令嬢たちは、分厚い白粉で肌の呼吸を止めることをやめた。
それぞれの肌の色や、骨格や、髪の色を活かした自然な装いを探し始めている。
古い美の規範という呪縛から解き放たれた人々が、ようやく自分自身の姿で息を吹き返し始めていたのだ。
その変化の中心地であるサロン・ミロワールには、連日、数え切れないほどの感謝の手紙と新たな依頼が舞い込んでいた。
セリーナは、その膨大な手紙の山を前にして、職人としての静かな喜びに浸っていた。
「……セリーナ様、少し休憩にしませんか? 温かいお茶を淹れましたから」
手伝いに来てくれていたエリスの声に、セリーナはふっと顔を上げて微笑んだ。
「ありがとうございます、エリス様。では、あと三通だけお返事を書いたら」
「それではいつまでも休めませんわ」
エリスが苦笑する。
その穏やかなやり取りに、セリーナの胸が少し温かくなった。
セリーナ自身は、あの夜から劇的に派手な別人へと変わったわけではない。
相変わらず仕事着は、動きやすさを重視した紺色だ。
大ぶりの宝石を身につけることもない。
けれど、決定的に変わったことが一つある。
彼女はもう、自分を鏡で見ることを避けなくなっていた。
仕事の合間に、ふと大鏡の前に立つ。
地味でくすんでいると諦めていた灰茶色の髪には、蜂蜜を焦がしたような艶を引き出す香油が丁寧に馴染ませてある。
淡い琥珀色の瞳の奥には、彼女の静かな意志を宿すように、目元にわずかな光が乗せられていた。
口元には、職人としての芯の強さを示す葡萄色の紅。
誰のためでもない。
自分自身が、自分の足で立つために選んだ、自分のための色。
鏡の中にいるのは、もはや裏方に隠れようとする女ではなかった。
自分の人生の正面に堂々と立つ、一人の誇り高き職人の姿だった。
*
カラン、と。
サロンの重い木の扉が開いたのは、そんな穏やかな午後のことだった。
「ごきげんよう、セリーナ。忙しくしているようだな」
現れたのは、いつもの古書商の若旦那の変装ではない。
王家の紋章が刻まれた外套を纏い、数人の近衛騎士を背後に従えた、王太子アレクシスその人だった。
彼が公的な姿でこのサロンを訪れた。
その事実に、セリーナはわずかに姿勢を正した。
「殿下。本日は、どのようなご用件でしょうか」
「今日は、お忍びの変装の依頼ではない」
アレクシスは、斜めに配置された小机の前に立ち、まっすぐにセリーナの琥珀色の瞳を見据えた。
「王国の未来のための、正式な依頼を持って来た」
そして、傍らの騎士から受け取った、王家の蝋封がされた重厚な羊皮紙を机の上にそっと置いた。
「セリーナ・マーロウ。君に、王国印象顧問という新たな役職に就いてほしい」
「王国印象顧問、ですか」
「そうだ」
アレクシスは頷いた。
「白粉商会が失脚し、王国の美容文化は今、大きな転換期を迎えている。これからの王国には、健全で多様な美の基準が必要だ」
その言葉は、王太子としての責任を帯びていた。
「君には、王宮式典における装いの監修や、他国との外交の場における印象設計を任せたい」
「印象設計……」
「ああ。相手を欺くためではない。相手に、こちらがどういう国であるかを正しく伝えるための装いだ」
アレクシスは、そこでわずかに微笑んだ。
「それだけではない。王族のお忍びのための変装技術の指導や、かつての君の客たちのように、身分や役割という古い価値観に縛られて息を詰まらせている者たちの相談役にもなってほしい」
セリーナは、机の上の羊皮紙を見つめた。
「これは、君にしかできない仕事だ」
それは、男爵家を追われた職人に与えられるものとしては、破格すぎるほどの大きな権限と名誉だった。
しかし、セリーナの脳裏には、あのすれ違いの夜の言葉がよぎる。
君の技術は、王国に必要だ。
私のそばに、来てほしい。
その記憶が蘇り、セリーナの肩が微かに強張ったのを、アレクシスは見逃さなかった。
彼は、静かに首を振った。
「勘違いしないでくれ、セリーナ」
「殿下……」
「私は、君を王宮に囲い込もうとしているわけではない」
アレクシスの声は、どこまでも真摯だった。
「君の店を、王宮に吸収するつもりもない。君のその素晴らしい鏡は、王宮の奥深くに閉じ込めるべきものではないからな」
セリーナは息を呑む。
アレクシスは、セリーナの瞳から視線を外さなかった。
「君は、君のままでいい。このサロンの店主として、今まで通り、傷ついた者たちを迎え続けてほしい」
彼は、王家の蝋封がされた羊皮紙に手を置いた。
「ただ、王国には君の技術が必要だ。命令ではない。君自身の意思で、私たちに力を貸してほしいのだ」
それは、王太子という身分から下した勅命ではなかった。
彼女の仕事への誇りを理解し、一人の自立した職人として敬意を払った上での、対等な依頼だった。
(……ああ。この方は、本当に私のことを理解してくださっている)
セリーナの胸の奥で、かつて彼女を縛っていた、道具として消費される恐怖が静かに溶けていくのが分かった。
彼女は、自分自身を取り戻した。
だからこそ、彼からの言葉を、もう歪めることなく真っ直ぐに受け取ることができた。
「……サロン・ミロワールは、ずっとここにあります」
セリーナは、凛とした声で静かに答えた。
「私はこの場所で、鏡の前に座るお客様をお迎えし続けます」
そして、王家の羊皮紙へ視線を落とす。
「けれど、私の技術が王国の新しい風となり、誰かが息をしやすくなるお手伝いができるのであれば」
セリーナは深く、美しい一礼をした。
「そのご依頼、謹んでお引き受けいたします」
アレクシスの紫水晶の瞳が、安堵と深い喜びに細められた。
「ありがとう、セリーナ」
彼は、彼女の手にそっと触れた。
百花夜会の翌日に、彼は職人としてではなく、一人の女性として求めていると告げた。
その想いを、セリーナはもう拒まなかった。
けれど、彼女は今、ようやく自分自身の足で立ち、自分の人生を歩み始めたばかりでもある。
だからアレクシスは、彼女を急がせない。
セリーナもまた、その距離をありがたいと思っていた。
甘すぎず。
けれど、確かに温かい。
信頼と想いで結ばれた、心地よい静かな距離感。
セリーナは、彼の手の温かさを拒むことなく、静かに受け入れていた。
*
「イザベラ母上も、君の就任を心待ちにされている」
新しい契約の細部を話し合いながら、アレクシスがふと思い出したように言った。
「母上は、あの鏡の職人がいれば、王宮はもっと風通しが良くなるでしょう、と笑っておいでだった」
「王妃殿下が、そのように……。身に余る光栄です」
「それと、レオンからも伝言を預かっている」
「レオン様から?」
「ああ。王宮で正式に印象顧問になったら、勇者の礼装がまた硬苦しくなるかもしれない。どうか、戦乙女の誇りを守ってくれ、だそうだ」
セリーナは思わず小さく笑った。
「承りました。礼装係の皆様と、よく相談いたします」
和やかな空気の中で、新しい契約の細部が話し合われていく。
報酬。
権限。
サロンの独立性。
王宮へ赴く頻度。
そして、王宮側がサロンに対して不当な命令を出さないための取り決め。
それらを一つひとつ確認していくアレクシスの姿に、セリーナは改めて胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼は、今度こそ彼女の仕事を奪おうとしていない。
彼女の場所を守った上で、隣に立とうとしてくれている。
やがてアレクシスたちを見送り、セリーナは一人、サロンの入り口の扉の前に立った。
見上げれば、開業の日に掲げたサロン・ミロワールの小さな木彫りの看板が、夕暮れの優しい光を受けて静かに輝いている。
彼女の鏡は、王宮の奥深くへ運ばれることはなかった。
ここはこれからも、王都の外れにある、傷ついた者たちのための小さな隠れ家のままだ。
だが、この古い扉の奥にある一枚の大鏡は、今、王国の中心へと確実に届き始めていた。
鏡の後ろに隠れることをやめた一人の女性職人の手が、この国の人々の世界の見え方を、美しく、鮮やかに塗り替えていく未来は、もうすぐそこまで来ていた。




