第31話 今日くらいは、私が私に
百花夜会の熱狂が去った翌日の、サロン・ミロワール。
先ほどまで客たちの笑い声で満ちていた店内は、今は静かな余韻に包まれていた。
エリスも、ベアトリスも、コレットも、リディアも。
王妃イザベラも、聖女ミレイユも、勇者レオンも。
皆、気を利かせるように少しずつ席を外していった。
そして今、サロンの奥に据えられた大鏡の前に、セリーナはただ一人で座っていた。
少し離れた壁際には、アレクシスだけが静かに立っている。
大鏡の正面。
誰かの背中を押すためではなく、自分自身を見るためだけに座る、初めての席。
セリーナは、膝の上に置いた自分の手が微かに震えていることに気がついた。
他人を仕立てる時は、一瞬の迷いもなく筆を取ることができる。
どんな複雑な悩みでも。
どんな深く傷ついた心でも。
その人が最も美しく息をできる色を、必ず探し出せる。
なのに、いざ自分自身を客として鏡の前に座らせてみると、途端に呼吸が浅くなり、何から手をつけていいのか分からなくなってしまった。
(私は、何を隠したかったのでしょう……)
セリーナは、鏡の中の自分に、初めて静かに問いかけた。
気味が悪い。
職人臭い。
女として足りない。
かつてクラウスから投げつけられた暴言の数々が、冷たい泥のように心の底に沈んでいる。
前世でも、そうだった。
日本の百貨店で。
ブライダルサロンで。
数え切れないほどの女性たちを、晴れ舞台へと送り出し続けてきた。
自分が主役になる番など、一度も来なかった。
誰の晴れ舞台でもない、無機質な病室で、一人きりで死んだ。
だから自分は、鏡の後ろの人間なのだと。
主役には向かない。
裏方として生きるしかない。
そう、自分に言い聞かせてきた。
灰茶色の髪も。
淡い琥珀色の瞳も。
すべて主役には似合わないものだと思い込み、見ないふりをしてきた。
けれど。
彼女の美容知識は、そんな言い訳を完璧に否定していた。
どんな色にも。
どんな姿にも。
必ず、その人が一番美しく息をできる見せ方がある。
それを、彼女自身が一番よく知っている。
「……あなたは、醜くありません」
セリーナの口から、ぽつりと言葉がこぼれた。
それは、これまで何度も客にかけてきた言葉だった。
「まだ、あなたに似合う見せ方を、誰も教えなかっただけです」
鏡の中の自分が、かすかに揺れたように見えた。
セリーナは、泣きそうになるのをこらえながら、小さく笑った。
「……いつも、他人にばかり言っていた台詞ですね」
彼女は、震える指先で化粧筆を取った。
「今日くらいは、私が私に言ってもいいでしょうか」
まず、頭の後ろで実用的にきつく結び上げていた紐を解く。
するり、と灰茶色の髪が肩に落ちた。
セリーナは手櫛で髪を梳きながら、窓辺から差し込む午後の光を受ける角度を少しだけ変える。
すると、ただのくすんだ色だと思い込んでいた髪に、柔らかな光が反射した。
蜂蜜を焦がしたような、深く温かい金茶色。
派手ではない。
けれど、静かで、深く、長く見つめていたくなる色だった。
(ああ……)
セリーナは、少しだけ目を瞠った。
自分を、別の誰かのように変える必要はない。
職人としての端正さも。
凛とした空気も。
長く道具と向き合ってきた手の美しさも。
消す必要など、どこにもない。
セリーナは、白粉で顔を塗りつぶさなかった。
肌には薄く保湿油を伸ばし、本来の血色を静かに呼び起こす。
頬には、ほんのわずかに温かみを足した。
淡い琥珀色の瞳には、柔らかで静かな意志の灯りを点すように、目元へ金茶色の粉を少しだけ乗せる。
まつ毛を整え、眉の形をわずかに引き締める。
それだけで、鏡の中の自分の目が、驚くほどはっきりと前を向いた。
唇には、強すぎる真紅ではなく、落ち着いた葡萄色の紅を引いた。
華やかさで人を圧倒するためではない。
自分の言葉を、自分の口で語るための色。
静かに、しかし確かに、ここにいると示すための色だった。
最後に、紺色のドレスの襟元を少しだけ整え、灰茶色の髪を片側へ流す。
そこへ、小さな金の髪留めを一つだけ添えた。
それは、鏡の後ろに隠れるための装いではなかった。
自分の人生の前に、堂々と立つ一人の人間としての仕立てだった。
地味だったのではない。
足りなかったのでもない。
まだ、自分のために仕上げていなかっただけだった。
セリーナが、ゆっくりと目を開ける。
その瞬間。
彼女の彩眼の中で、ずっと冷たい空白だった鏡の中の自分に、初めて色が灯った。
灰色の諦めではない。
派手な原色でもない。
蜂蜜を焦がしたような金茶色と、透き通るような琥珀色。
それらが柔らかな光を帯びて、氷が溶けるように、花がふわりと開くように、彼女の輪郭を温かく包み込んでいく。
「……セリーナ」
不意に、すぐ背後から静かな声がした。
振り返ると、アレクシスが、息を呑んだような顔で彼女を見つめていた。
王太子としての冷徹な仮面は、そこにはない。
ただ一人の男としての、痛いほど真っ直ぐな感情を宿した紫水晶の瞳。
「殿下……」
「すまない」
アレクシスは、ゆっくりと片膝をつき、セリーナの手をそっと取った。
「あの夜、私は君の心を見落として、取り返しのつかない言葉を口にしてしまった」
その声は、静かに震えていた。
「君を才能としてだけ語ってきたのは、私の罪だ。君の技術が王国に必要だという言葉で、私は君自身を見ているつもりになっていた」
「殿下……」
「私は、王国に都合のいい道具として君をそばに置きたいわけではない」
アレクシスは、セリーナの手を両手で包み込んだ。
「君の技術を王宮の飾りとして消費する気もない」
そして、彼はまっすぐに告げた。
「職人としてではなく、君自身を求めている」
セリーナの胸が、大きく震えた。
「サロンの店主としてでも、王国に必要な才能としてでもない。セリーナ・マーロウという一人の女性として、私の隣に立ってほしい」
それは、王太子という身分も、国家の大義名分も、すべて脇に置いた告白だった。
ただの、不器用で、真剣な男の言葉だった。
以前のセリーナなら、その言葉を受け取れなかっただろう。
自分なんかが望まれていいはずがないと、頑なに拒絶していたはずだ。
けれど、今の彼女は違う。
自分自身を鏡の前に座らせた。
自分のために色を選んだ。
自分の人生の主役として立つことを、たった今、少しだけ許せたのだから。
「……今なら、少しだけ分かります」
セリーナは、アレクシスに握られた自分の手に、そっと力を込めて握り返した。
「私は、鏡の後ろにいるだけの人間ではなかったのですね」
その言葉の意味を理解し、アレクシスの瞳が大きく見開かれる。
やがて、安堵と喜びに満ちた優しい光が、そこに広がっていった。
「そうだ」
アレクシスは、低く、けれど確かな声で言った。
「君は、誰かを輝かせるためだけの人ではない。君自身も、ここに立っていい人だ」
セリーナの目に、涙が滲んだ。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
ようやく、自分自身を鏡の中に見つけた人の涙だった。
アレクシスは立ち上がり、セリーナをそっと腕の中へ引き寄せた。
壊れ物を扱うように、けれど決して離さないように。
セリーナもまた、その温もりに身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、午後の光が王都の屋根を柔らかく照らしていた。
百花夜会の激動は終わった。
白粉の仮面も。
押し付けられた正解も。
誰かに選ばれるためだけの美しさも。
もう、彼女たちを縛ることはできない。
鏡の中で、セリーナ・マーロウは初めて、自分自身に向かって、心からの美しい微笑みを浮かべた。




