第30話 全員が映る鏡の、ただ一人
王国全土を巻き込んだ百花夜会の熱狂と、白粉商会の断罪劇から一夜が明けた。
嵐が去った後の王都は、新しい時代の幕開けを歓迎するかのような、穏やかで澄み切った空に包まれていた。
サロン・ミロワールの店内は、夜会での緊張が嘘のように、和やかで温かい空気に満ちていた。
休業日であるにもかかわらず、セリーナがこれまで仕立ててきた客たちが、次々とサロンに顔を見せてくれたのだ。
エリス。
ベアトリス。
コレット。
リディア。
さらには、お忍びの王妃イザベラと聖女ミレイユ。
そして勇者レオンまでもが、小さなサロンに姿を見せていた。
「昨夜は本当に見事でしたわ、セリーナ様」
「ええ。あなたが私たちのために用意してくれた反証の数々、胸が熱くなりました」
令嬢たちが、口々に称賛と感謝の言葉をかける。
サロンの奥に据えられた大鏡の前に、彼女たちが並んで立っていた。
セリーナの彩眼には、鏡の前に立つ客たちの姿が、目も眩むほどの美しい色彩となって視えていた。
エリスから放たれる、知性を研ぎ澄ませた月光の銀。
ベアトリスを包み込む、他者を癒す温かな蜂蜜色。
コレットの芯の強さを示す、凛とした葡萄色。
リディアの誇り高き、太陽のような黄金色。
王妃イザベラの、重ねた時間の重みを示す黒真珠の深み。
聖女ミレイユの、深い慈愛と意志を宿した鮮やかな薔薇色。
そして勇者レオンの、強さと美しさが奇跡的な均衡を保つ、誇り高き深紅と銀。
彼らは、セリーナの技術で別の誰かになったわけではない。
自分が隠し、恥じていた本来の魅力を、自分自身の意志で選び取り、取り戻したのだ。
だからこそ、その色は誰の目にもこれほどまでに美しく、力強く花開いている。
その光景を見つめながら、セリーナの胸には熱いものが込み上げていた。
誇らしくて。
嬉しくて。
思わず泣きそうになる。
しかし、彼女は目元をそっと拭うと、あくまで仕事人としての静かな微笑みを浮かべた。
「皆様がご自身の力で勝ち取られた輝きです。私はただ、そのお手伝いをしただけに過ぎません」
「またそんなことを言って」
コレットが笑いながら、大鏡の前からセリーナに向かって手招きをした。
「あなたが背中を押してくれなければ、私たちはまだ古い価値観の檻の中で泣いていたわ」
「そうですわ。セリーナ様も、こちらへいらしてください」
エリスも微笑む。
「今日くらい、一緒に鏡に映りましょう」
セリーナは、少し困ったように眉を下げ、控えめに後ずさった。
「お気持ちは嬉しいのですが……私は、皆様をお送りする側ですから。主役の皆様の中に、裏方の私が混ざるわけには……」
「裏方などと言うな、セリーナ」
レオンが、深く響く声で言った。
「君は紛れもなく、俺たちを救ってくれた恩人だ。どうか、隣に並んでくれ」
王妃イザベラが、穏やかに頷く。
「人を鏡の前へ導く者が、鏡の前に立ってはならない道理などありません」
聖女ミレイユも、薔薇色の瞳を和らげた。
「セリーナ様。今日は、あなたもご自身を見つめる日なのかもしれません」
これ以上固辞するのは、かえって無粋だろう。
セリーナは小さく一礼すると、おずおずと客たちの輪の中へ歩みを進めた。
そして、大鏡の正面に立った。
物理的な鏡面には、華やかな客たちに囲まれて、装飾の少ない紺色のドレスを着た、灰茶色の髪の自分が確かに映っている。
だが。
セリーナは、自分の彩眼が捉えた光景に、息を呑んだ。
客たちの色は、あんなにも鮮やかに、美しく視界を満たしている。
それなのに、鏡の中央に立つ自分自身の輪郭には、ほとんど色が宿っていなかった。
怒りや悲しみの灰色でもない。
自分を受け入れた喜びの花の色でもない。
そこにあるのは、ただ、ひどく冷たい空白だった。
(……ああ)
セリーナは、その空白を前にして、自分の胸の奥に空いていた穴の正体にようやく気づいた。
他人の感情や、心の状態はあんなにも鮮やかに視える。
他人がどんな色を望み、どんな姿になれば息をしやすくなるのか。
それなら、誰よりも正確に考えられる。
けれど。
「……私は、自分を一度も、見ていなかった」
ぽつりと漏れた呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。
前世で、鏡の後ろに立ち続けた記憶。
現世でも、地味で気味が悪いと捨てられた記憶。
それらを理由にして、自分は自分自身を、仕立てる価値のない裏方だと決めつけていた。
自分の本当の心が、どんな色を望んでいるのか。
どんな姿で、誰の隣に立ちたいのか。
その問いから、ずっと目を逸らし続けてきたのだ。
これほど多くの人々が、自分自身を取り戻す手伝いをしておきながら。
ただ一人、セリーナ・マーロウ自身だけが、まだ鏡の前に座ることすらできていない。
鏡に映る自分の空白が、急にひどく惨めで、恐ろしいものに思えた。
セリーナは、思わず視線をそらそうとする。
その時だった。
「セリーナ」
いつの間にか、彼女のすぐ隣にアレクシスが立っていた。
あのすれ違いの夜以来の、手の届く距離。
彼は、セリーナの怯えたような横顔を静かに見下ろしていた。
責めることはしない。
急かすこともしない。
ただ、彼女が逃げずに自分自身を見るまで待つように、穏やかに問いかけた。
「では――君自身は?」
その問いは、かつてセリーナがコレットに投げかけた言葉と同じように、彼女の心の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。
「他人の色ではなく、君自身の心は」
アレクシスの紫水晶の瞳が、鏡越しにセリーナをまっすぐに見つめている。
「君は本当は、どんな姿で、誰の隣に立ちたいと願っているんだ?」
答えを押し付けることはしない。
彼女の代わりに決めることもしない。
ただ、彼女自身の答えを待つという、真摯な愛情と覚悟がそこにあった。
セリーナは、すぐには答えられなかった。
自分自身の望みを口にすることが、これほどまでに怖くて、震えることだとは知らなかった。
しかし、彼女の隣には、自分が背中を押した誇り高い客たちがいる。
そして、自分を見つめ続けてくれる彼がいる。
セリーナは、逃げなかった。
震える手をぎゅっと握り締める。
そして、ゆっくりと、自分自身の瞳を、大鏡の正面でまっすぐに見つめ返した。
その日、セリーナ・マーロウは初めて。
誰かのためではなく、自分のために鏡の前へ座った。




