第29話 今さら、もう遅い
広間を支配していた偽りの美の権威が、音を立てて崩れ去った。
近衛兵に両腕を拘束されたヴェロニカとオルドが、広間の中央で膝を突かされる。
アレクシスは、王家の紋章が刻まれた上着を翻し、冷徹な紫水晶の瞳で彼らを見下ろした。
「白粉商会による毒物混入、悪質な買い占め、並びに肌荒れ被害の組織的な隠蔽」
その声は、王太子としての威厳に満ち、広間の隅々にまで響き渡った。
「そして宰相補佐オルド。貴公の職権乱用による商会への便宜と、私腹を肥やした数々の証拠は、すでに王太子直属の監査役と近衛が押さえている」
オルドの顔色が、紙のように白くなった。
「さらに、神殿の保守派よ」
アレクシスの視線が、震える高位神官たちへ向けられる。
「そなたらが民の真の声を無視し、聖女個人の尊厳を蔑ろにしてまで古い偶像を守ろうとしたことも、この機に重く問われることになろう」
神官たちは、王太子の鋭い牽制に顔を青ざめさせ、震えながら深く頭を下げた。
すべては、セリーナが客の肌を守るために集めた証拠と、彼女に救われた客たちの声があったからこそ成立した断罪だった。
アレクシスは、決してセリーナの手柄を自分の権力で奪うような真似はしない。
彼女が切り開いた真実を、王国としての法と秩序で正式に裁いているだけだった。
「……私の、築き上げてきたものが……」
拘束されたヴェロニカは、乱れた黒のビロードのドレスを身に纏い、完璧だった白粉の仮面を強張らせていた。
だが、彼女は泣き喚き、這いつくばって許しを乞うような真似はしなかった。
「私は間違っていない……!」
ヴェロニカは、血を吐くような声で叫んだ。
「私が正解を与えてやらなければ、この国の女たちは皆、野蛮で見苦しい姿を晒すだけよ!」
彼女は最後まで、自分を守り続けてきた美の規範という鎧にしがみついていた。
セリーナは、その姿に追撃をしなかった。
彼女の抱える深い恐怖と痛みに、気づいていないわけではない。
美しさという正解を握っていなければ、自分自身の足場が崩れてしまう。
ヴェロニカは、そう信じて生きてきたのだろう。
だが。
それを他人の首輪にした罪は、償わなければならない。
セリーナはただ、静かにヴェロニカが兵士たちに引き立てられていくのを見送った。
*
「セリーナ……! おお、セリーナ!」
ヴェロニカとオルドが連行され、広間に安堵の空気が流れ始めた時。
場違いなほど甲高い声が響いた。
クラウス・ベルナーだった。
強力な後ろ盾であった白粉商会と宰相補佐が完全に失脚したことで、彼は真っ青な顔をしてセリーナの前に進み出てきた。
その後ろでは、白粉の厚塗りが崩れかけたジゼルが、不安そうに身を縮めている。
「俺が悪かった、セリーナ! 俺はお前を誤解していたようだ!」
クラウスは、まるでこれまでの暴言や偽証などなかったかのように、芝居がかった手つきでセリーナに手を伸ばそうとした。
「まさかお前が、これほどまでに素晴らしい技術を持ち、王家や聖女様から頼りにされるほど価値のある女だったとは!」
その言葉に、周囲の空気が冷えた。
しかし、クラウスは気づかない。
彼の目には、セリーナへの謝罪の色など微塵もなかった。
あるのはただ、王太子すら味方につけた価値の跳ね上がった元婚約者を、もう一度自分のものにしようとする浅ましい計算だけだった。
「見違えたぞ、セリーナ。お前がここまでできる女だと知っていれば、俺だってあんな真似はしなかった」
クラウスは、得意げに胸を張った。
「どうだ、セリーナ。お前もそんな地味な職人の格好ではなく、再び伯爵家の妻という輝かしい座に戻りたいだろう? もう一度、俺がやり直してやってもいいぞ!」
厚顔無恥なその言葉に、周囲の貴族たちから軽蔑の視線が突き刺さる。
だが、クラウスは本気で信じ切っていた。
セリーナが喜んで自分の手を取るものだと。
セリーナは、差し出されたクラウスの手を一瞥した。
そして、静かに、氷のように冷たい琥珀色の瞳で彼を見据えた。
怒鳴ることもない。
彼のように声を荒げることもない。
どこまでも丁寧に、しかし決定的な拒絶の言葉を紡いだ。
「見違えたのではありません」
その静かな声が、クラウスの浅薄な期待を根本から叩き斬った。
「私が持っている技術も、粉や油に向き合う姿勢も、昔から何一つ変わってはおりません」
セリーナは、まっすぐに彼を見た。
「あなたが、最初から私を見ていなかっただけです」
「な、何を……」
「私についた泥を払うことすらせず、ただ華がないと切り捨てた」
広間は静まり返っていた。
「そして今、私が他の方々の目によって価値を認められた途端に、すり寄ってくる」
セリーナの声は、どこまでも穏やかだった。
だからこそ、鋭かった。
「それは、あなたの審美眼が絶望的に曇っているという証明に他なりません」
「セリーナ、お前、俺に向かって……!」
「当サロンは、見る目のない方の再教育までは承っておりません」
セリーナは、はっきりと言葉を切った。
「どうか、お引き取りください」
それは、取り付く島もないほどの完全な拒絶だった。
クラウスは顔を真っ赤にし、次いで真っ青に変えた。
「あ、あ……」
口をぱくぱくと開閉させるばかりで、もはや反論する言葉すら見つからない。
彼は周囲の貴族たちから冷ややかな嘲笑を浴び、惨めに後ずさった。
そして、逃げるように広間から立ち去っていった。
残されたジゼルは、不安の薄紫の靄を濃く漂わせながら、セリーナに怯えた視線を向けた。
セリーナは、彼女を嘲笑うことはしなかった。
だが、声をかけることもしなかった。
ジゼルもまた、クラウスの背中を追うようにして逃げ去っていった。
*
すべての敵が、広間から姿を消した。
その瞬間、張り詰めていた緊張がゆっくりとほどけていく。
やがて、誰からともなく拍手が湧き起こった。
エリスが。
ベアトリスが。
コレットが。
リディアが。
王妃が。
聖女が。
そして、勇者が。
セリーナによって本来の自分を取り戻した客人たちが、心からの笑顔で彼女に拍手を送っていた。
その拍手は会場全体に波及し、割れんばかりの称賛となってセリーナを包み込む。
サロン・ミロワールの名が。
そして、セリーナ・マーロウという職人の存在が。
この夜、王都中の人々の記憶に深く刻み込まれた。
「……終わりましたね」
大きな拍手の中で、セリーナはようやく深く息をついた。
勝利した。
お客様の肌と、彼らの尊厳を守り抜くことができた。
それは、職人として何より誇るべきことだった。
しかし。
皆がまばゆいほどの光の中で輝き、称賛を浴びているその光景を見つめながら、セリーナの胸の奥には、またしてもあの冷たい空洞が広がっていた。
(皆様が輝くほど……私だけが、ますます鏡の後ろに取り残されていく気がします)
夜会も終盤に差し掛かり、客たちは広間に残された大鏡の前に集まり、自分たちの美しい姿を弾けるような笑顔で確認し合っていた。
エリスが眼鏡を直しながら微笑む。
ベアトリスが、自分の蜂蜜色のドレスを嬉しそうに撫でる。
ミレイユが薔薇色の裾をそっと摘まみ、レオンが深紅の姿を恥じることなく鏡に映している。
誰もが、鏡の前で自分を見つめていた。
誰もが、そこに映る自分を受け入れていた。
セリーナは、その光景からそっと身を引くように、無意識のうちに後ずさった。
ここは、彼女たちの場所だ。
自分は、その後ろに立つ人間だ。
そう思った瞬間。
広間の大鏡に、セリーナ自身の姿が映った。
紺色の簡素なドレス。
灰茶色の髪。
化粧道具を握る、疲れた手。
誰よりも多くの人を鏡の前へ送り出してきた職人。
けれど、自分だけはまだ、鏡の前に立てない女。
セリーナは、思わず目を伏せた。
その夜、彼女が最後に向き合うべき最大の難敵は。
まだ、鏡の中に残っていた。




