第28話 あなたを縛っているのは、誰ですか
「客が満足すれば、それで良いというの?」
ヴェロニカ・ダルクールの声が、大鏡の前に鋭く響いた。
「身分も、役割も、女としての慎みも、すべてを無視して、ただ個人の欲望のままに着飾る。そんなものを認めれば、王都の美の秩序は崩壊するわ」
彼女は、扇を握り締めたまま、セリーナを睨みつけている。
「それでも、あなたのそのやり方は、この国の美の秩序を根本から壊す、許されざる冒涜よ!」
その叫びが、広間に重い静寂をもたらした。
証拠を突きつけられた。
客たちの声によって、偽りの告発も崩された。
それでも、ヴェロニカはまだ立っていた。
いや。
立たざるを得ないのだ。
ここで引けば、彼女が人生を賭けて信じ、自らをも縛り付けてきた美の規範そのものが、根本から崩れ去ってしまうから。
「女が身の程を忘れ、好き勝手な姿で歩けば、社交界は無秩序なものになるわ」
ヴェロニカは、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「白さ、若さ、細さ、そして流行。それらにはすべて意味があるのよ」
完璧に塗り固められた白粉の顔。
寸分の乱れもない髪。
流行の最先端を示す、隙のない黒のビロード。
「社会が定めた正解に従うこと。その枠に自らを押し込めることで、女は男から愛され、守られてきた。社会の歯車として、安全な場所を与えられてきたのよ」
それは、ある意味でこの世界の残酷な真理でもあった。
「それを破壊し、日焼けした肌や丸みまで、そのままでいいと甘やかすあなたのやり方は、愚かな女たちを破滅させるだけの悪魔の所業よ!」
セリーナは、ヴェロニカを静かに見つめていた。
彩眼が捉えるのは、過去そのものではない。
けれど今、ヴェロニカの全身を覆う色は、これまでになく鮮明だった。
一寸の隙もなく塗り固められた、硬い白。
その奥底に、ひどく冷たく、怯えきった灰色の傷がある。
まるで、凍りついたまま泣き叫んでいるような色だった。
(……あなたもまた、傷ついてこられたのですね)
誰かに、美しくないと切り捨てられたのかもしれない。
誰にも選ばれない恐怖を、骨の髄まで味わったのかもしれない。
そこから這い上がるために、自分を殺し、肌を白く塗り、無理な細さを求め、流行という正解にすがりついたのかもしれない。
今の美の規範は、ヴェロニカにとって権力の源泉であると同時に、傷ついた自分を守るための、決して手放せない鎧なのだろう。
だが。
それでも。
「あなたが美しさに縛られてきたことは、わかります」
セリーナの静かな声に、ヴェロニカの肩が微かに跳ねた。
「自分を守るために、社会の求める正解に自らを合わせる。誰かが傷つかずに生きるための鎧であるなら、私はその美を否定しません」
セリーナは、一歩前に出た。
「……けれど」
琥珀色の瞳が、ヴェロニカの完璧な仮面を射抜く。
「それを他人の首輪にしていい理由には、なりません」
「……っ!」
「誰かを黙らせるため。誰かの尊厳を奪うため。誰かをあなたの正解に従わせるための美なら、私は扱いません」
セリーナの声は、怒鳴ってはいない。
けれど、その場にいる誰よりも強かった。
「あなたは、ご自身の古傷を守るために、お客様の顔を毒で傷つけようとしました」
広間に、低いどよめきが走る。
「それはもう、美への奉仕ではありません。ただの暴力です」
ヴェロニカの完璧な笑みが、音を立てて崩れ落ちた。
怒り。
恐怖。
そして、見透かされたことへの屈辱。
彼女の瞳が赤く血走り、扇を握る手が小刻みに震える。
「黙りなさい……!」
ヴェロニカは、血を吐くように叫んだ。
「男爵家を追われた小娘の分際で、私を説教する気!? 私は正しかったわ! 私の商会が、この王都の美を……!」
「その白粉商会の正しさも、すでに底が割れています」
冷徹な声と共に、広間の奥から数人の王宮薬師と商人たちが進み出てきた。
アレクシスが手配していた者たちだった。
王宮薬師の一人が、深く一礼する。
「白粉商会が流通させた一部の粉に、肌へ強い刺激を与える安価な成分が混入されていた記録がございます」
続いて、別の商人が震える声で証言した。
「他店の化粧品原料を買い占め、白粉商会の基準に従わぬ店には原料を流さないよう、圧力をかけられました」
さらに、薬師が書類を掲げる。
「肌荒れを訴えた令嬢たちには、商会と結びついた治療薬が高値で売られていた形跡もあります。被害は、決して一件ではありません」
白粉商会が長年行ってきた、美を隠れ蓑にした搾取と不正。
その一端が白日の下に晒された瞬間、会場を支配していたヴェロニカの権威は、目に見えて崩れていった。
「そんな……」
「我が家の娘の肌荒れも、もしや」
「白粉商会は、安全だと言っていたではないか」
彼女を支持していたはずの貴族たちが、一斉にざわめき始める。
さっきまでヴェロニカの言葉に頷いていた者たちが、蜘蛛の子を散らすように距離を取り始めた。
ヴェロニカの隣に立っていた宰相補佐オルドでさえ、顔面を蒼白にして後ずさった。
「私は、商会の不正など一切知らなかった!」
見苦しい責任逃れの言葉が、広間に響く。
その瞬間、アレクシスの目が冷たく細められた。
「それは後ほど、監査役の前で聞こう」
オルドの唇が、びくりと震えた。
「……違う」
ヴェロニカは、その場に立ち尽くしていた。
白粉で覆われた顔が、細かく震えている。
「違うわ。私は……私はただ、美しくありたかっただけ……!」
その声は、先ほどまでの権威に満ちたものではなかった。
張り詰めた糸が切れたような、か細い叫びだった。
彼女を縛っていたのは、社会の秩序だけではない。
男たちだけでもない。
かつて美しくないと呪いをかけた者たちの言葉を内面化し、自分自身を絶対に許そうとしなかった、彼女自身の恐怖でもあったのだろう。
セリーナは、崩れ落ちそうなヴェロニカを見下ろすことはしなかった。
ただ、一人の職人として、役目を終えた大鏡の前に静かに佇んでいた。
同情はある。
理解も、少しはある。
だが、それは罪を消す理由にはならない。
「……そこまでだ」
広間を包む混乱を切り裂くように、アレクシスがゆっくりと歩みを進めてきた。
彼はもはや、お忍びの古書商でも、一人の青年でもない。
この国を統べる王太子としての、絶対的な威厳と冷徹さを纏っていた。
「ヴェロニカ・ダルクール。ならびに宰相補佐オルド」
アレクシスの声が、広間の隅々まで響く。
「貴公らの罪は、この場で明白となった」
近衛兵たちが進み出る。
ヴェロニカは抵抗しようとしたが、すでに力は残っていなかった。
オルドはなおも何か言い訳をしようと口を開いたが、近衛兵の視線を受けて黙り込む。
「国家の秩序を乱し、民を私欲で虐げた罪。決して免れることはできない」
近衛兵たちが、ヴェロニカとオルドを拘束する。
鏡の前で暴かれた偽りの美の正体を、今度は王国の光が、法と権力をもって裁く番だった。




