第34話 サロン・ミロワールへようこそ
王都の中心から少し離れた、貴族街と庶民街のちょうど境目にあたる古びた石畳の通り。
王国印象顧問という重職に就いてからも、セリーナ・マーロウはその場所から店を移すことはなかった。
扉の横に掲げられた小さな木彫りの看板には、開業の日から変わらない文字が刻まれている。
サロン・ミロワール。
あなたが、あなたを取り戻す場所。
王都の美容のあり方が大きく変わった今、このサロンを訪れる客層は、かつてないほど多様になっていた。
流行のドレスに身を包んだ令嬢や貴婦人。
商会の女主人。
市場で働く庶民の娘。
剣ダコのある女性騎士。
果ては、お忍びでやってくる神官まで。
完全予約制。
秘密厳守。
彼らは皆、誰かからどう見られるかではなく、自分がどんな姿で立ちたいかを見つけるために、この王都の外れにある小さなサロンの扉を叩くのだ。
*
カラン、と。
穏やかな午後の陽射しの中、入り口のベルが控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
セリーナが温かい声で迎え入れたのは、粗末な木綿の服を着た、腰の少し曲がった年老いた庶民の女性だった。
彼女は、美しく整えられた店内の調度品を見て、ひどく恐縮したように身を縮める。
斜めに配置された小机の前の椅子にも、遠慮がちに腰を下ろした。
「あのう、私みたいな婆さんが、こんな立派な店に来てしまって、本当に良かったんじゃろうか……」
「もちろんです」
セリーナは、カモミールティーの入ったカップをそっと差し出した。
「ここは、ご自身の見せ方を取り戻したいと願う、すべての方のための場所ですから」
女性は温かいお茶を一口飲み、少しだけ強張った肩の力を抜いた。
それから、膝の上で自分の手をぎゅっと組み合わせる。
長年の厳しい労働で、節が太くなった手。
深い皺が刻まれ、日焼けして、指先には小さな傷跡がいくつも残っている。
彼女は、それを隠すようにしながら、ぽつりとこぼした。
「……娘がね、今度、結婚することになったんです」
女性の目尻に、嬉しさと寂しさの入り混じったような皺が寄る。
「娘の晴れ姿を見るのは、本当に嬉しい。けれど、こんな皺だらけで、日焼けして、骨張った手をした私が隣に並んだら、せっかくの娘の晴れ舞台に恥をかかせてしまうんじゃないかって」
彼女は、膝の上の手をさらに強く握った。
「だから、娘の結婚式に、少しでも胸を張って出たいんです。でも、自分みたいな年寄りを今さら綺麗にしても、仕方ないんじゃないかって……」
誰かのために身を粉にして働き続け、自分のことはいつも後回しにしてきた人生。
女性の言葉の端々に滲む、自分自身を価値のないものとして扱う諦め。
それは、かつてセリーナが担当した多くの令嬢たちと、そして、過去のセリーナ自身と何一つ変わらないものだった。
セリーナは、小机越しに身を乗り出した。
そして、女性が隠そうとする荒れた手を、自分の両手で優しく、温かく包み込む。
「あなたがあなたを好きになれるよう、仕立てましょう」
セリーナのまっすぐな琥珀色の瞳が、女性の目を捉えた。
「娘さんのためだけではありません」
その声は、やわらかく、けれど揺るがなかった。
「あなたが、あなた自身の人生に胸を張って立つためです」
その言葉に、女性の目が微かに見開かれた。
やがて彼女は、小さく、小さく頷いた。
*
セリーナの筆が、静かな店内に心地よい音を響かせる。
彼女は、王妃イザベラを仕立てた時と同じように、分厚い白粉で皺を埋め、無理に若返らせるような真似は決してしなかった。
女性の顔に刻まれた深い皺は、長年家族を支え、笑い、泣き、懸命に生きてきた尊い時間の証だ。
セリーナは、上質な保湿油で肌の奥から自然な艶を引き出した。
皺の影を明るく飛ばす程度の薄い粉だけを乗せる。
節の太い手には、たっぷりと香油を馴染ませ、温もりと柔らかさを取り戻させる。
髪は無理に染めない。
美しい白銀の糸として活かし、ふっくらとした形に結い上げた。
「こちらの布の中から、お好きなものをお選びください」
セリーナは、いくつかのドレスの生地や髪飾りを女性の前に並べた。
庶民の暮らしから浮きすぎず、しかし晴れの日にふさわしい上品さと温かさを持つ色合いのものばかりだ。
女性は戸惑いながらも、セリーナに促されて生地に触れた。
しばらく迷った後、彼女の視線が、柔らかな亜麻色の布と、控えめな白い小花の髪飾りに止まる。
「……これが、いいです」
女性が、自分自身の意志で選んだ色。
身分や年齢に関係なく、本人の選択を何よりも尊重すること。
それこそが、サロン・ミロワールの根幹だった。
セリーナは微笑んで頷き、女性が選んだ布で彼女の身体を優しく包み込む。
そして、白い小花の髪飾りをそっと添えた。
「……目を開けてくださいませ」
大鏡の前に立った女性は、ゆっくりとまぶたを開けた。
そして、言葉を失った。
そこに映っていたのは、娘の晴れ舞台を汚してしまうと卑屈になっていた、みすぼらしい年寄りではなかった。
深い皺の奥に優しさと強さを宿し、上品な亜麻色の装いに身を包んだ、娘の門出を祝うにふさわしい、美しく温かな母親の姿だった。
自分の生きてきた時間が、隠すべき恥ではなく、誇るべき美しいものとしてそこにある。
「ああ……」
女性の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「こんな私でも……こんなに、綺麗に……」
感極まって震える声で言いかけた女性の言葉を、セリーナは静かに、けれど力強く遮った。
「こんな私、ではありません」
セリーナは、女性の肩にそっと手を添えた。
鏡越しの彼女に向かって、誇り高く微笑む。
「今日まで懸命に生きてこられた、あなたです」
その言葉に、女性は両手で顔を覆って泣き崩れた。
そして、やがて、心からの美しい笑顔を鏡の中の自分に向けたのだった。
*
夕暮れ時。
何度も頭を下げて帰っていく女性を笑顔で見送ったセリーナは、ふと、通りの向こうに立っている人影に気づいた。
「セリーナ。今日も良い仕事をしたようだな」
王太子としての公務を終えたアレクシスが、夕日に照らされながら穏やかな足取りで近づいてくる。
彼は決して、サロンの中へ無遠慮に上がり込んで、彼女の仕事を邪魔することはない。
こうして外で、彼女の仕事が終わるのを待っているのだ。
王国の未来を背負う彼と、王都の片隅で人々の心に寄り添う彼女。
立場は違えど、互いの職務を深く尊重し合う静かで心地よい関係が、二人の間に確かな根を下ろし始めていた。
「ええ。とても美しい方でした」
「そうか」
アレクシスは、サロンの奥にある大鏡を見つめて、目を細めた。
「君の鏡は、本当に不思議だな」
「鏡は、ただ映すだけです」
セリーナは、穏やかに微笑んだ。
「変わるのは、鏡の前に立つ方ご自身です」
「なら、その鏡の前へ導く君の手が、やはり特別なのだろう」
アレクシスはそう言って、セリーナに向かって優しく手を差し出した。
セリーナは微笑んでその手を取り、並んで石畳の通りを歩き出す。
「戸締まりはいいのか?」
「はい。明日の準備も、完璧に終えております」
「それは頼もしい」
二人の影が、夕暮れの石畳に長く伸びた。
*
その夜。
アレクシスとささやかな夕食を共にした後、セリーナはサロン・ミロワールへ戻ってきた。
夜の帳が下りた店内で、彼女はただ一人、薄明かりの中、大鏡の前に立っている。
以前の彼女なら、すぐに視線を逸らしていただろう。
けれど今の彼女は、鏡の中の自分自身を、まっすぐに見つめ返している。
鏡に映る灰茶色の髪は、蝋燭の光を受けて、蜂蜜を焦がしたように温かく輝いていた。
淡い琥珀色の瞳は、もう何かに怯えることもない。
自分の生きてきた道と、これから進むべき未来を、静かに見据えている。
自分は、鏡の後ろに隠れるだけの人間ではない。
誰かの人生の主役になれない女でもない。
彼女は、自分自身の持つ色を。
自分自身の生き方を。
心の底から愛し、誇りに思っていた。
容姿を変えるのではない。
人生の見え方を変えるのだ。
自分が自分を好きになれるように。
自分が自分の足で、胸を張って歩いていけるように。
そのために、セリーナ・マーロウは今日も鏡の前に立つ。
今度は、自分自身の姿を映すために。
そして明日もまた、この小さなサロンの扉を開く。
ここは、誰かに選ばれるための場所ではない。
あなたが、あなたを取り戻す場所。
サロン・ミロワールへようこそ。




