第26話 魔女の店と告発されました
優雅なワルツの旋律と、貴族たちの華やかな歓談の声が響き渡っていた百花夜会の広間。
その熱気を帯びた空気が、突如として氷水を浴びせられたかのように凍りついた。
「皆様。この麗しき百花の夜会に、秩序を破壊する恐ろしい魔女が紛れ込んでおりますわ」
楽団の演奏を鋭く制止し、広間の中央で声を張り上げたのは、ヴェロニカ・ダルクールだった。
白粉商会と深く結びつき、王都の貴族美容における権威として知られる女。
完璧な白粉と黒のビロードのドレスで武装した彼女は、閉じられた扇の先を、壁際で控えていた一人の女性へと真っ直ぐに突きつけた。
セリーナ・マーロウ。
サロン・ミロワールの店主である。
「あそこにいる女。サロン・ミロワールなどという店を構えるあの職人こそが、王都の美の基準を汚し、令嬢たちを唆している魔女です!」
数百人を超える貴族たちの視線が、一斉にセリーナへと突き刺さる。
突然の事態に会場がざわめく中、ヴェロニカの隣に、冷徹な面持ちの宰相補佐オルドが進み出た。
「宰相補佐として、ダルクール殿の告発を支持する」
オルドは、居並ぶ貴族たちを見渡しながら、理路整然とした声で告げた。
「あのサロンが行っているのは、単なる化粧ではない。本来の身分や立場が要求する姿を偽装させ、社会の枠組みを逸脱させる極めて危険な技術だ」
オルドの眼鏡が、シャンデリアの光を冷たく弾く。
「現に、あの女は王太子殿下のお忍びにも関与している疑いがある。王族の威厳を損なうような技術を、私的な店が扱ってよいはずがない。これ以上、このような身分詐称に繋がる技術を放置すれば、我が国の厳格な階級秩序は根本から崩壊するだろう」
王太子への関与。
そして、秩序の崩壊。
国家の根幹を揺るがすようなオルドの政治的な言葉に、貴族たちの間へ明確な不安と疑念が広がり始めた。
さらに、彼らに同調するように、神殿の保守派を代表する高位神官が、顔を真っ赤にして前に出た。
「神殿からも告発いたす!」
神官の声が、広間の天井に響いた。
「あの魔女は、我らが誇る清らかな聖女様を言葉巧みに誑かし、あろうことか俗悪な色のドレスを着せて信仰を汚した! 己の欲望のままに飾り立てるなど、神への明白な冒涜である!」
美容の権威。
政治の管理者。
神殿の高位者。
権威ある者たちから次々と投下される重い告発に、広間の空気は確実に傾いていった。
そして最後の一押しとばかりに、大仰なため息をつきながら歩み出てきたのは、ベルナー伯爵家の次男クラウスだった。
彼は、自分がこの巨大な陰謀の中で哀れな被害者という主役を演じているのだと信じ切り、悲劇を気取るような顔を作っていた。
「……皆様、どうか聞いていただきたい。私は彼女の元婚約者として、セリーナ・マーロウの恐ろしい本性を誰よりもよく知っています」
クラウスは、同情を引くように声を震わせてみせた。
「彼女は昔から、貴族の令嬢としての務めを放棄し、粉や油といったものに異常な執着を示していました。あまりの気味の悪さに私が婚約を破棄したところ、彼女は私への逆恨みを口にしたのです」
クラウスは、ちらりとセリーナを見た。
その目には、かつて自分が捨てた女が、今や王都の注目を集めていることへの醜い嫉妬が滲んでいた。
「あの店は、復讐のために女たちを化粧で操る、呪われた場所なのです!」
元婚約者の証言。
それは、真実を知る者からすればあまりにも浅ましい嘘だった。
だが、初めて聞く者にとっては、十分に刺激的で、十分に疑わしい言葉だった。
四方向からの一斉の攻撃は、あまりにも周到な包囲網だった。
「呪われた店……」
「そういえば、あの店に関わった者は皆、人が変わったようになると聞いたわ」
「聖女様や勇者様まで、あの魔女に心を操られてしまったというのか……?」
会場の空気が、じわじわと反転していく。
先ほどまで称賛の的だったエリス、ベアトリス、コレット、リディア。
王妃イザベラ。
聖女ミレイユ。
そして勇者レオン。
彼らへ向けられる視線すらも、魔女に操られた哀れな犠牲者を見るような、同情と疑いの入り混じったものへと変わり始めていた。
*
セリーナは、壁際で静かにその光景を見つめていた。
背筋には冷たい汗が流れ、心臓は早鐘のように打っている。
怖くないわけがない。
国家の権力と伝統が結託して、男爵家を追われた一人の職人を、巨大な悪意の濁流で押し流そうとしているのだ。
だが、セリーナの琥珀色の瞳から、職人としての光が消えることはなかった。
(……ヴェロニカ様。あなたはこの場で、私の心を折り、泣いて許しを乞う姿を皆様に見せつけるおつもりですね)
セリーナは、決して感情的に怒鳴り返すような真似はしなかった。
彼女がまず視線を向けたのは、自分を糾弾する敵たちではない。
会場のあちこちで不安げに立ち尽くす、自分が仕立てた客たちの姿だった。
エリスが、不安そうに眼鏡の縁に触れている。
ベアトリスが、蜂蜜色のドレスの裾を強く握り締めている。
コレットは唇を噛み、リディアは怒りに肩を震わせていた。
聖女ミレイユは祈るように胸元へ手を当て、レオンは今にも前に出そうな勢いで拳を握っている。
彼女たちが勇気を出して選び取った自分自身の姿を、ここで再び恥にしてはならない。
彼女たちの誇りを守るためにも、自分は絶対に逃げるわけにはいかない。
「……待て。その告発には、いささか飛躍が過ぎるのではないか」
その時、広間の空気を切り裂くように、王太子アレクシスが鋭い声と共に進み出ようとした。
彼は権力を使ってでも、この理不尽な魔女狩りからセリーナを守るつもりだった。
しかし、彼が一歩を踏み出した瞬間。
セリーナの静かで、しかし強烈な意志を宿した視線が彼を制止した。
(殿下、どうかお待ちください)
言葉にはしない。
けれど、その瞳は確かにそう告げていた。
(ここであなたが権力で私を庇えば、それこそ王太子まで魔女に誑かされたという彼らの筋書きを完成させてしまいます)
これは政治の戦いではない。
信仰の戦いでもない。
誰かの魂を縛ることのない美しさとは何かを証明するための、一人の職人としての戦いなのだ。
アレクシスは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
踏み出しかけた足が止まる。
彼女の戦場を、自分が奪うわけにはいかない。
ようやく、彼はそれを理解した。
*
水を打ったように静まり返る広間の中で。
セリーナ・マーロウは、逃げることなく、誰の背中にも隠れることなく、自らの足でゆっくりと、広間の中央へと歩みを進めた。
紺色の簡素なドレスのまま。
王国中の悪意と視線が集まる場所へ。
「……魔女、ですか。随分と古めかしく、大げさな言葉を使われるのですね」
セリーナの声は、怒りに震えることも、恐怖に上擦ることもなかった。
ただどこまでも澄み切って、広間の隅々にまで静かに響き渡った。
ヴェロニカが、忌々しげに目を細める。
「強がりはそこまでになさい。あなたが女たちから選ばれるための努力を奪い、社会の秩序を破壊している証拠なら、いくらでも……」
「言葉だけなら、いくらでも美しく飾ることができます」
セリーナは、ヴェロニカの言葉を静かに遮った。
そして、ヴェロニカ、オルド、神官、クラウスの四人を、一人ずつ真っ直ぐに見据える。
「どのような大義名分も、理屈も、都合よく仕立て上げることができるでしょう」
広間の空気が、さらに冷たく張り詰めた。
「ですが、鏡は決して嘘をつきません」
そこは、彼女にとって断罪の場などではない。
これまで何人もの傷ついた客たちを、最も美しい姿で人生の主役へと送り出してきた、サロン・ミロワールの大鏡の前と同じだった。
「私がお客様の顔を壊す魔女であるというのなら」
セリーナは一歩、さらに前へ出た。
「ええ、どうかこの場で、鏡の前に立って確かめてみましょう」
誰もが息を呑んだ。
反証の時は、すぐそこまで迫っていた。




