第25話 外れた一の矢
「……そこまでです」
静まり返った控え室に、セリーナの冷たい声が響いた。
化粧台の前で、共用の小瓶に手を伸ばそうとしていた侍女が、びくりと肩を跳ねさせて振り返る。
「な、何よ、あなた。私はただ、お化粧の乱れを直そうと……」
「そうですか」
セリーナは、侍女の手元にある小瓶へ視線を落とした。
「では、なぜ王宮備品の棚に置かれていた小瓶と、あなたが今並べ替えようとした小瓶では、封蝋の厚みが違うのでしょう」
侍女の顔から、さっと血の気が引いた。
セリーナの彩眼に視えていたのは、小瓶の中身ではない。
侍女の肩口から滲む、暗い灰色の焦り。
罪を犯すことへの怯え。
そして、命じられた役目を失敗できないという切迫だった。
だからこそ、セリーナは物を見た。
封蝋。
瓶底。
香り。
持ち込まれた時刻。
そして、事前に残しておいた管理記録。
「控え室に置いた予備の化粧品には、すべて薬師に頼んだ特殊な印を入れてあります。通常の灯りでは見えませんが、こちらの試薬を当てれば浮かび上がるものです」
セリーナは、小さな筆で瓶底に試薬を塗った。
本来なら浮かび上がるはずの淡い青の印は、どこにもない。
「あなたが持っているその瓶は、私が安全を確認したものではありませんね」
「し、知らないわ。私は、言われた通りに……!」
そこまで言って、侍女は自分の失言に気づいたように唇を押さえた。
セリーナは、一歩だけ前に出た。
「お客様の肌に、試すような真似はさせません。その小瓶は、証拠としてこちらで預からせていただきます」
その時、背後から足音が近づいてきた。
「どうした、セリーナ。何か問題か?」
アレクシスだった。
王太子としての正装に身を包んだ彼は、セリーナと怯えきった侍女、そして化粧台の上の不審な小瓶を見て、瞬時に事態を察した。
彼は大声を上げて騒ぎ立てるような愚は犯さなかった。
ただ、鋭い紫水晶の瞳で侍女を見据え、背後に控えていた近衛兵へ短く目配せをする。
「その小瓶を回収しろ。ただし、中身には触れるな。瓶ごと封じて証拠として保管する」
「はっ」
「そして、この者を別室へ。誰の指示で動いたのか、後で話を聞かせてもらおう」
「ひっ……! お、お許しを……!」
侍女は音を立てて崩れ落ち、近衛兵によって静かに連行されていった。
アレクシスは、セリーナの仕事の邪魔をしないよう、最小限の動きで素早く事態を収拾した。
彼とセリーナの間に、言葉にならない距離はまだ残っている。
それでもこの危機においては、職人と王太子として、確かな信頼があった。
「……助かりました、殿下」
「いや。君の準備があったからこそ未然に防げた」
アレクシスは、封じられた小瓶を険しい目で見た。
「だが、相手はあの白粉商会だ。この程度の小物の口を割らせたところで、決定的な打撃にはならないだろう」
「ええ。分かっています」
セリーナは静かに頷いた。
「ですが、今は何よりも、皆様を無事に舞台へ戻すことが先です」
セリーナはすぐに控え室の化粧品を確認した。
封蝋。
瓶底の印。
香り。
粉の粒子。
不審なものが他に紛れ込んでいないかを、素早く、しかし念入りに確かめていく。
そして、自分が用意してきた安全な予備品だけを、手前の台に揃え直した。
「この控え室の品は、今後すべて私か王宮侍女長の確認を通したものだけにしてください」
「分かった。侍女長には私から伝える」
アレクシスが頷く。
セリーナの胸の奥には、客の顔を台無しにしようとした者への強い怒りが燃えていた。
だが、ここで感情に任せてヴェロニカの元へ怒鳴り込むような真似はしない。
お客様の肌を守る。
証拠を守る。
そして、仕事で返す。
それが、彼女の職人としての誇りだった。
*
夜会は中盤を過ぎ、広間の熱気は最高潮に達していた。
エリス。
ベアトリス。
コレット。
リディア。
王妃イザベラ。
聖女ミレイユ。
そして勇者レオン。
サロン・ミロワールが仕立てた客人たちは、誰一人として肌を腫れさせることも、体調を崩すこともなく、それぞれの場所で圧倒的な輝きを放ち続けている。
「……おかしい。どういうことですの?」
貴賓席の暗がりで、ヴェロニカはぎり、と奥歯を噛み鳴らした。
彼女の計算では、今頃は誰かの顔が赤く腫れ上がり、痛みに泣き叫ぶ声が広間に響き渡っているはずだった。
そして、サロン・ミロワールの危険な化粧品のせいだと騒ぎ立てる手筈だったのだ。
しかし、何時間経っても、誰の顔にも異変は起きない。
「ヴェロニカ様……控え室に向かわせた者が、戻りません」
部下の囁きに、ヴェロニカの完璧な白粉の仮面が、怒りでわずかに歪んだ。
(あの小娘……。私の罠に気づき、未然に防いだというの?)
ヴェロニカは、苛立たしげに扇をぱちんと鳴らした。
自分の仕掛けた第一の矢が、あっさりと外された。
しかも、王太子であるアレクシスが裏で動いている気配まである。
だが、ヴェロニカはここで諦めるような女ではない。
彼女は、王都の美の秩序を支配する女なのだ。
「……いいでしょう。小賢しい鼠が、少しばかり勘が良かっただけのこと」
ヴェロニカは、冷酷な目で広間を見下ろした。
毒を盛って被害者を作るという裏工作が失敗したのなら。
表舞台から堂々と、圧倒的な権力と正論をもって叩き潰すまでだ。
「オルド殿。クラウス・ベルナー」
「は、はい」
クラウスが慌てて身を乗り出す。
オルドは無言のまま、予定していた告発文書を取り出した。
ヴェロニカは、氷のような微笑みを浮かべて命じる。
「予定を変更します。被害が出るのを待つ必要はありませんわ」
「では、今ここで?」
「ええ」
ヴェロニカはゆっくりと立ち上がった。
「今すぐ、あの女を広間の中央に引きずり出しなさい。この私自らが、あの魔女の店の危険性を、皆の面前で暴いて差し上げます」
クラウスの唇に、浅ましい笑みが浮かぶ。
「お任せください。あの女がどれほど気味の悪い職人か、私が誰よりもよく知っています」
「頼もしいこと」
ヴェロニカは、目だけで笑った。
そして、外れた一の矢を少しも恥じることなく、容赦のない二の矢を放つ。
「さあ、王都の皆様に教えて差し上げましょう」
彼女の声は、甘く、冷たく、毒を含んでいた。
「身の程をわきまえない偽りの美が、どれほど社会の秩序を脅かす、忌まわしい毒であるかということを」
その直後。
広間の中央で、クラウス・ベルナーが高らかに声を上げた。
「皆様、お聞きください! この夜会に、王国の美と秩序を乱す危険な女が紛れ込んでおります!」
人々の視線が、一斉に動いた。
音楽が、途切れる。
歓談が、止まる。
百花が咲き誇る広間の中央に、冷たい沈黙が落ちた。
クラウスの指先が、壁際に立つセリーナへと向けられる。
「サロン・ミロワールの店主、セリーナ・マーロウ! あなたに、皆の前で申し開きをしていただきたい!」
ついに、二の矢が放たれた。




