第24話 百花夜会、開幕
王宮の大広間は、文字通り百花が咲き乱れるような絢爛豪華な熱気に包まれていた。
天井で輝く巨大なシャンデリア。
壁を飾る無数の薔薇。
楽団が奏でる優雅なワルツ。
そして、王国中の権力と富を一身に纏った貴族たちが、絹の擦れる音と香油の匂いを振り撒きながら歓談の輪を作っている。
セリーナは、広間の片隅に設けられた王宮装い顧問たちの待機席に、目立たない紺色のドレス姿で静かに立っていた。
ここは彼女の晴れ舞台ではない。
彼女はあくまで、鏡の後ろにいる裏方だ。
主役は、自分が送り出した客人たちである。
セリーナは静かに呼吸を整え、広間の扉へと視線を向けた。
*
やがて、会場の空気が少しずつ、しかし確実に変わり始めた。
入り口の扉が開き、夜空のような深い紺色と銀のドレスを纏ったエリスが姿を現したのだ。
銀細工の眼鏡はそのままに、すっきりと伸びた背筋で堂々と歩く彼女の姿は、まるで静かな月光そのものだった。
彼女の周りにはすぐに知的な紳士たちが集まり、エリスは臆することなく、美しい微笑みと共に高度な歴史談義を交わしている。
続いて、ふくよかな体型を蜂蜜色のドレスで柔らかく包み込んだベアトリスが登場した。
無理なコルセットで体を締め付けている令嬢たちが多い中、彼女の温かく安心感のある丸みは、かえって人々の目を惹きつけた。
彼女は楽しげに笑いながら、自ら焼いた菓子の話をしている。
その周りには、彼女の飾らない人柄に惹きつけられた人々が、日だまりに集まるように輪を作っていた。
「見事ですね。あの二人、以前はあんなに縮こまっていたというのに」
「ええ。ですが、驚くのはまだ早いですわ」
深い葡萄色のドレスを纏い、凛とした歩みで進み出てきたのはコレットだ。
かつて男の好みに自分を合わせようとしていた、痛々しい人形の面影はもうどこにもない。
自らの意志で選び取ったその色は、彼女の芯の強さを際立たせ、近寄りがたいほどの気高さを放っていた。
そして、会場の視線を一気に釘付けにしたのは、太陽のような金と深緑のドレスを纏ったリディアだった。
王都の白粉で肌を隠すことなく、健康的な小麦色の肌と、鍛え上げられた肩のラインを堂々と見せている。
その神話の戦乙女のような姿に、武官や他国の外交官たちが感嘆の声を漏らし、こぞって彼女に敬意の礼をとった。
「素晴らしい……。あれが、本当の美しさというものか」
「まるで、一人ひとりが自分だけの光を放っているようだ」
会場に、称賛と驚きのざわめきが波のように広がっていく。
彼女たちは、誰一人として別人になったわけではない。
それぞれが本来持っていた知性、温かさ、意志、強さ。
それらの魅力を、最大限に開花させただけなのだ。
その事実が、画一的な白粉の仮面を被っただけの令嬢たちとの違いとして、残酷なまでに可視化されていた。
*
さらに、その熱狂を決定づけるように、王宮の奥から二つの大きな存在が姿を現した。
一人は、重厚なミッドナイトブルーのドレスに黒真珠を纏った、王妃イザベラ。
若作りという浅い足掻きを捨て去り、重ねてきた時間と経験を絶対的な威厳として纏うその姿に、広間の空気がぴりりと引き締まる。
誰もが自然に、深く首を垂れた。
もう一人は、純白の衣を脱ぎ、薔薇色のドレスを纏った聖女ミレイユ。
作られた虚ろな笑顔ではなく、自らの足で立ち、意志を持った慈愛の瞳で人々を見つめる彼女の姿は、神殿が押し付けた偶像ではなく、真に生きている聖女としての清らかさを放っていた。
極めつけは、深紅と銀の装束に身を包み、大剣を背負って登場した勇者レオンだ。
性別の枠すらも越えたその神々しいまでの存在感に、会場の誰もが息を呑み、圧倒されたように道を空けた。
「……信じられない。あれをすべて、サロン・ミロワールが手がけたというのか」
「もはや化粧などという次元ではない。あの店は、人の本来の姿を見つけ出している」
広間の至る所で、サロン・ミロワールの名が感嘆と共に囁かれていた。
壁際で見守るセリーナの胸に、職人としての静かで深い誇りが満ちていく。
ふと、視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所からアレクシスが自分を見つめているのに気がついた。
彼の紫水晶の瞳には、これだけの大舞台を成功させながら、なおも自分を裏方に徹しさせようとする彼女への、焦燥にも似た切実な光が宿っていた。
だが、セリーナは小さく一礼するだけで、すぐに視線を外した。
自分は、彼が王として国を導くための有能な職人。
それ以上でも以下でもないのだから。
*
サロン・ミロワールが手がけた者たちの圧倒的な成功。
それは同時に、古い秩序にすがる者たちにとっての致命的な敗北を意味していた。
「……忌々しい。どいつもこいつも、秩序を忘れて身の程を知らない顔をして」
貴賓席の暗がりで、ヴェロニカ・ダルクールは持っていた扇をへし折らんばかりの力で握り締めていた。
彼女の隣には、宰相補佐オルドと、セリーナへの逆恨みを隠そうともしないクラウス、そして神殿保守派の神官が青ざめた顔で並んでいる。
「ダルクール殿。このままでは、あの店が王都の価値観を塗り替えてしまいますぞ」
神官が、震える声で囁いた。
「あの聖女様のお姿を見ましたか。民だけではない。貴族たちまでもが、あれを清らかだと受け入れ始めている」
「……分かっていますわ」
ヴェロニカの完璧な白粉の下で、顔の筋肉が微かに痙攣した。
自分が支配してきた社会の前提が、足元から音を立てて崩れ去っていく。
白く、細く、若く、男に選ばれることこそが美しい。
その基準を握っていたからこそ、彼女は王都の女たちを支配できた。
だが今夜、その支配の柱が一本ずつ折られていく。
知性は月光として輝き。
丸みは蜂蜜の温かさとして愛され。
日焼けした肌は太陽の誇りとなり。
皺は王妃の威厳となり。
薔薇色は聖女の清らかさとなり。
そして、勇者の強靭な体すら、美しさとして称賛されている。
あの男爵家を追われた職人の存在は、もはや手段を選んでいられる段階を越えていた。
「予定通り、実行しなさい」
ヴェロニカは、背後に控えていた部下に向かって、冷酷な声で命を下した。
「今夜この場で、あの女の築いたものを、すべて崩して差し上げます」
*
夜会が中盤に差し掛かった頃。
広間に隣接する、令嬢たちの化粧直しのために設けられた控え室の付近で、セリーナは足を止めた。
控え室へ向かう侍女の一人。
その横顔に見覚えはない。
王宮の侍女にしては、歩き方が硬すぎる。
盆に載せている化粧品の小瓶は、控え室に用意されている共用の品に見える。
だが、そのうちの一つだけ、封蝋の色がわずかに違っていた。
セリーナの彩眼には、その侍女の肩口から、暗い灰色の焦りと、濁った怯えが滲んでいるのが視えた。
罪を犯すことへの恐怖。
そして、命じられた役目を失敗できないという切迫。
(……動きましたね)
セリーナは即座に表情を引き締め、足音を忍ばせて控え室の方向へと向かった。
サロン・ミロワールで仕立てた客たちは、すでに夜会の前に安全な化粧品で仕上げを済ませている。
しかし、夜会の長丁場で汗をかいたり、食事で紅が落ちたりすれば、控え室に用意された共用の化粧品に手を伸ばす者が出てもおかしくない。
おそらくヴェロニカは、そこに毒を仕込ませたのだ。
客の肌が腫れた瞬間、それをサロン・ミロワールで施された下地のせいだと公開告発するために。
「……そこまでです」
控え室の奥で、セリーナが声をかけた。
誰もいないはずの化粧台の前で、白粉商会の紋章が入った小瓶を並べ替えようとしていた侍女の肩が、びくりと跳ねた。
百花が咲き誇る華やかな夜の裏側で。
王都の美の秩序を終わらせるための、最初の一滴が、静かに落とされようとしていた。




