第23話 全員を仕立てる前夜
王国中の視線が集まる大舞台、百花夜会を翌日に控え、サロン・ミロワールの店内は戦場のような慌ただしさに包まれていた。
斜めに配置された小机には、様々な色相の絹布、厳重に安全を確認された香油の小瓶、選び抜かれた宝石や髪飾りが所狭しと並べられている。
連日の激務。
毒物混入の罠を未然に防ぐための、神経をすり減らす検品作業。
そして、百花夜会で予想される公開告発への準備。
セリーナの体には、深い疲労が蓄積していた。
だが、彼女の指先は一片の狂いもなく、正確で美しい軌道を描き続けていた。
百花夜会に向けて、これまでに彼女が手がけた客たちが、次々と最終的な仕立てのためにサロンを訪れていた。
*
「セリーナ様、これ……以前より度数の強い眼鏡なのですけど、このドレスに合いますか?」
エリスは、銀細工の美しいグラスチェーンを揺らしながら、深い紺色のドレスの裾をつまんだ。
丸まっていた背筋は、すっきりと伸びている。
かつて自分の知性を恥じていた面影は、もうない。
彼女は堂々と、自分の愛する本の話を誰にでもできる、月光のような静けさを手に入れていた。
「ええ、とてもよくお似合いです。夜会の照明の下で、その知性がより一層輝くように、目元の光の置き方を少しだけ変えておきますね」
「ありがとうございます!」
次に訪れたベアトリスは、温かな蜂蜜色のドレスに身を包み、ふっくらとした美しい手で、手作りの焼き菓子の包みを差し出した。
「これ、夜会で皆さんに振る舞おうと思っているんです。……もう、誰に太っていると笑われても、私は美味しいものを食べる自分を恥じたりしません」
「素晴らしいお覚悟です」
セリーナは、柔らかく微笑んだ。
「あなたのその優しさと温かさを引き立てるために、今日はバニラに少しだけ、スパイシーなシナモンの香りを足してみましょう」
深い葡萄色のドレスを纏ったコレットは、以前のように、誰かの正解を求めるような怯えた視線をしなくなっていた。
「私、もう彼を見返すためになんて装わない。私が一番好きな色を、私のために着て歩くわ」
「その意志の強さこそが、コレット様の最大の魅力です。凛とした眉のラインを、少しだけ強めに引いておきますね」
そして、王都の流行を自らの存在で真っ向から否定した、辺境伯令嬢リディア。
彼女は深緑のドレスの肩を堂々と見せ、日焼けした小麦色の肌を誇らしげに輝かせていた。
「王都の者どもに、辺境の太陽の熱をたっぷりと思い知らせてやりますわ」
「ええ、ぜひ」
セリーナは、保湿油を丁寧に馴染ませながら頷いた。
「あなたのその強さの前に、白粉の仮面などすぐに溶けてしまうでしょう」
王宮の奥深くでは、すでに王妃イザベラの最終確認も終えていた。
厚塗りの白粉を捨て去った王妃は、黒真珠の落ち着いた輝きとともに、自らが重ねてきた時間と威厳を、最高級の美として纏っていた。
神殿から密かに訪れた聖女ミレイユの仕立ても、滞りなく整っている。
神殿が押し付けた無私の白ではなく、彼女自身の強さと慈愛を象徴する薔薇色のドレス。
そこに、白百合と薔薇を合わせた香りを一滴だけ重ねた。
ミレイユは明日、自らの言葉で祈りを捧げる覚悟を、静かに燃やしていた。
そして最後は、屈強な体格を隠すことなく、深紅と銀の豪奢なドレスを見事に着こなした勇者レオンだ。
「……また、誰かに笑われるかもしれない」
レオンは、大きな手で深紅の布をそっと撫でた。
「だが、俺はもう逃げない。この姿で、魔王軍を討ち果たした英雄として、堂々と立ってみせる」
「ええ」
セリーナは、彼の肩に飾る銀の留め具を整えた。
「あなたのその気高さは、決して誰にも奪えない、あなた自身のものです。戦乙女の誇りを胸に、いってらっしゃいませ」
全員を美しく仕立て、誇りとともに送り出しながら、セリーナは心からの喜びを感じていた。
彼女たちが、誰かの押し付けた価値観の首輪を外し、自分自身の見せ方を取り戻していく姿を見届けること。
それこそが、セリーナにとっての何よりの幸福であり、職人としての存在意義だった。
しかし。
その幸福感の裏側で、セリーナの胸の奥には、いつも冷たい空洞がぽっかりと空いていた。
*
「……ねえ、セリーナ様」
仕立てを終え、鏡の前で自分の姿に満足げに微笑んでいたコレットが、ふと振り返って尋ねた。
「あなたはいつも、こうやって他人ばかりを美しく仕立てているけれど……百花夜会には、セリーナ様もいらっしゃるのでしょう?」
「ええ。王宮装い顧問の候補として、末席に控えさせていただく予定です」
「だったら……あなた自身のことは、一体誰が仕立てるの?」
コレットの無邪気な問いかけに、セリーナの手がぴたりと止まった。
「私、ですか?」
セリーナは、自分の灰茶色の髪と、装飾のない紺色の仕事着に視線を落とした。
「……私は、仕立てる側の人間ですから。自分のために着飾る必要はありません。皆様が輝いてくだされば、それで十分なのです」
笑顔で流そうとした。
だが、自分でも驚くほど、その言葉は弱々しく、空虚に響いた。
コレットは少し不思議そうな顔をした。
けれど、それ以上深くは追及しなかった。
「そう? セリーナ様も少しお洒落をすれば、きっと素敵なのにな」
そう言って、彼女はサロンを後にした。
扉のベルが、からん、と小さく鳴る。
その音が消えた後も、セリーナはしばらく動けなかった。
(私自身を、仕立てる……)
誰もいなくなったサロンの中で、セリーナは一人、小さく息を吐いた。
その時、脳裏に蘇ったのは、あのすれ違いの夜のアレクシスの言葉だった。
君の技術は、王国に必要だ。
私のそばに、来てほしい。
あの日以来、毒物混入の調査を通じてアレクシスとは連絡を取り合っている。
けれど、二人の間には、言葉にならない距離と緊張が張り詰めたままだ。
彼はセリーナの身を案じ、調査に協力してくれている。
だが、あの夜の言葉の真意について、釈明や言い訳をしてくることはなかった。
セリーナもまた、自分からその領域に踏み込むことはしなかった。
彼は王太子で、自分はただの職人。
彼は技術を求め、自分はそれに応える。
それでいいはずだ。
自分自身の存在を求められたいなどと、烏滸がましい夢を見るべきではない。
セリーナは思考を切り替え、明日への最終確認を始めた。
白粉商会が仕掛けた毒物混入の罠。
セリーナはすでに、すべての客の化粧品を安全なものに差し替え、厳重な保管を徹底している。
問題の下地粉は、封をし直した痕跡ごと保全した。
納品記録、配送経路、試薬の反応。
反証に必要なものは、すべて整えてある。
だが、ヴェロニカがそれだけで諦めるとは思えない。
明日の夜会では、必ず何らかの形で直接的な攻撃を仕掛けてくるはずだ。
おそらくは、衆人環視の中での公開告発。
王国中の貴族と権力者の前で、サロン・ミロワールを危険な店だと断じるつもりなのだろう。
証拠の保全。
反証の準備。
流通経路の記録。
安全な代替品の調整。
すべては整えた。
あとは、戦場に立つだけだ。
*
夜が更け、すべての準備を終えたセリーナは、一つだけ残っていた蝋燭の灯りを消そうと、部屋の奥へと歩みを進めた。
その途中、綺麗に磨き上げられた大鏡の前を通り過ぎる。
セリーナは、ふと足を止めた。
暗い店内で、ほんのりと光を反射する鏡面。
そこに、紺色の仕事着を着た自分の姿が映っているのが分かった。
灰茶色の髪。
淡い琥珀色の瞳。
化粧道具を持つ、よく働く手。
数えきれないほどの人を鏡の前に座らせ、その人自身の色を取り戻してきた職人。
けれど、セリーナは決して、自分を真正面から見ようとはしなかった。
誰かを美しく送り出すための女。
自分に似合う色は、知識として完璧に理解している。
なのに、自分を客席に座らせる資格があるとは思えない女。
鏡の中には、他人の見せ方を取り戻させてきた有能な職人が映っていた。
けれどその女自身が、明日、本当はどんな姿で、誰の隣に立ちたいのかを――。
セリーナはまだ、知らなかった。




