第22話 百花夜会で、あなたの店は終わる
王国中の有力貴族、王族、神殿の高位者、そして名だたる商会が一堂に会する最大規模の社交行事――百花夜会。
美と権威が最も残酷なまでに可視化されるその夜に向けて、王都全体が浮き足立っていた。
サロン・ミロワールの店内も、連日ひっきりなしに訪れる客の対応で慌ただしくなっていた。
王妃や聖女、そして勇者レオンの変身を目の当たりにした令嬢たちが、こぞって百花夜会に向けた仕立てを依頼してきているのだ。
セリーナは、疲労を感じさせない手つきで一人ひとりの客と向き合い、筆を振るい続けていた。
(……君の技術は、王国に必要だ。私のそばに、来てほしい)
ふとした瞬間に、数日前の夜にアレクシスから告げられた言葉が、ちくりと胸の奥を刺す。
王国のための便利な技術として、職人としての自分だけが求められている。
その事実を頭では理解し、納得したつもりだった。
前世から自分は、鏡の前に立つ人間ではない。
鏡の後ろにいる裏方なのだから。
けれど、彼に向けた拒絶の言葉を思い出すたび、呼吸が浅くなるような痛みが残っている。
セリーナは小さく頭を振り、その痛みを仕事への集中力で覆い隠した。
*
夜になり、すべての客を見送ったサロンで、セリーナは納品されたばかりの化粧品の検品作業に取りかかっていた。
百花夜会に向けて特別に発注していた、真珠粉入りの下地粉である。
肌を白く塗り潰すためのものではない。
くすみを整え、灯りの下で肌に自然な艶を与えるための、薄く軽い仕上げ粉だった。
木の小箱の蓋を開けた瞬間、セリーナの手が止まった。
(……香りが違う)
ほんのわずかな違和感だった。
上質な白百合の香りの奥に、鼻の奥を刺すような酸味が混じっている。
見た目はいつも通りの淡い真珠色。
けれど、指先で少量を紙の上に落としてみると、粉の粒子がわずかに重く、湿り気を帯びていた。
セリーナは表情を消したまま、蓋の内側と封蝋を確認する。
封は破られていないように見える。
だが、箱の縁に残った蜜蝋の厚みに、わずかな偏りがあった。
一度温めて剥がし、貼り直した痕跡だ。
セリーナの彩眼は、物質そのものを分析する力ではない。
粉に何が混ざっているのかを、色で見抜くことはできない。
だからこそ、彼女は目の前の事実だけを拾い上げた。
香り。
粒子。
封蝋。
納品時刻。
配送人の態度。
そして、仕入れ記録。
セリーナは小箱にはそれ以上触れず、別の棚から小さな試薬瓶を取り出した。
以前、薬師から教わり、肌に刺激のある薬草成分を調べるために取り寄せていたものだ。
白い紙の上に落とした粉に、試薬を一滴垂らす。
粉は、しゅわ、と微かな音を立てた。
次の瞬間、淡い真珠色だった粉が、赤茶けた不吉な色へと変わっていく。
「……紅斑草の抽出液」
セリーナの口から、氷のように冷たい声が漏れた。
肌に塗れば、数時間後には焼けるような痛みとともに、酷い赤みと腫れを引き起こす悪質な毒草の成分だ。
もしこれに気づかず、百花夜会に向かう客たちの顔に塗っていたら。
会場で一斉に令嬢たちの肌が赤く腫れ、悲鳴が上がる。
サロン・ミロワールの信用は完全に地に落ち、客の顔を傷つける魔女の店として公開告発されることになる。
「……私の、お客様の肌に、こんなものを」
セリーナの琥珀色の瞳の奥に、これまでにないほど深く、静かで、強烈な怒りが灯った。
自分への嫌がらせなら耐えられる。
悪評も、罵倒も、脅しも、今さら恐れるつもりはない。
だが、本当の自分の美しさを見つけ、勇気を出して夜会へ向かおうとしている客たちの肌を、このような卑劣な手段で傷つけようとする悪意だけは、職人として絶対に許せなかった。
セリーナは小箱を閉じ、封を切らずに証拠として布で包んだ。
その上から、日付、納品時刻、業者名を書き込んだ紙を結びつける。
次に、仕入れの記録帳を開いた。
納品日。
問屋の名前。
配送を請け負った業者。
百花夜会用の特別発注で、誰がどの段階でこの小箱に触れることができたのか。
セリーナは、一つひとつを論理的に絞り込んでいく。
怒りはある。
けれど、手は震えていなかった。
職人に必要なのは、怒鳴ることではない。
客の肌を守り、仕事で返すことだ。
*
「セリーナ。まだ起きているか」
そこへ、古書商の若旦那に変装したアレクシスが、静かにサロンを訪れた。
あのすれ違いの夜以来、二人の間には、目に見えない薄いガラスのような壁が張り詰めていた。
アレクシスは、自分が何を間違えたのか気づいているようだった。
だが今はまだ、安易な謝罪でセリーナの領域に踏み込むことを自重しているようでもあった。
「……どうした。酷い顔色だぞ」
しかし、机の上に広げられた記録帳と、赤茶色に変色した粉を見て、アレクシスの目つきが鋭く変わった。
「殿下。百花夜会用の下地粉に、肌を腫れさせる毒草の成分が混入されていました」
「なんだと……!」
アレクシスは瞬時に状況を理解し、激しい怒りに顔を歪めた。
「白粉商会か」
「断定はできません。ですが、この納品経路に細工できた者は限られます」
セリーナは、記録帳の該当箇所を指で示した。
「問屋からここへ運ばれるまでの間に、箱の封を一度剥がして貼り直した痕跡があります。中身は証拠として保管します。お客様には使いません」
「当然だ。すぐに私の権限で業者を押さえる」
「殿下」
セリーナは静かに彼を止めた。
その声に、アレクシスは動きを止める。
「ここで権力を使って表から潰しても、彼女たちはまた別の手を使ってお客様を狙います」
セリーナは、証拠として封じた小箱を見下ろした。
「この戦いは、私が職人として、私のやり方で決着をつけなければなりません」
「……君一人で背負う必要はない」
「一人で背負うつもりはありません」
セリーナは、初めてアレクシスをまっすぐに見た。
「問屋と配送ルートの調査には、殿下のお力をお借りしたいです。ですが、百花夜会に出るお客様の肌と装いは、私が守ります」
アレクシスは一瞬、息を呑んだ。
彼女をただ守られるだけの存在として扱うことは、彼女の誇りを傷つける。
それを、彼はもう理解していた。
「分かった」
アレクシスは、深く頷いた。
「証拠は私が預かるのではなく、君の店に残した方がいいな。だが、配送記録と問屋の出入りは私の方で調べる。表向きは、百花夜会の警備確認という名目にする」
「ありがとうございます」
「それと、安全な代替品は用意できるのか」
「はい」
セリーナは、別の棚に目を向けた。
「念のため、主要な下地粉は別系統でも材料を揃えてあります。真珠粉は足りませんが、米粉と保湿油、それに鉱石粉を調整すれば、肌への負担が少ない下地を作れます。華やかさは少し落ちますが、お客様の肌を守ることが最優先です」
アレクシスの目に、かすかな驚きと敬意が宿った。
「君は、最初からこうなる可能性を考えていたのか」
「お客様の肌に直接触れる仕事ですから」
セリーナは静かに答えた。
「最悪を考えるのも、職人の務めです」
その横顔は、疲れているのに、ひどく凛としていた。
アレクシスはその姿を見て、胸の奥に痛みを覚える。
守りたい。
けれど、囲い込むのではない。
彼女が彼女のまま立てるように、隣で支えなければならない。
ようやく、それが少しだけ分かった気がした。
*
同じ頃。
王宮の豪奢な一室で、ベルナー伯爵家の次男クラウスは、得意げにワイングラスを傾けていた。
「ようやく、あの気味の悪い女の化けの皮が剥がれるというわけですね」
クラウスは、目の前に座る宰相補佐オルドと、ヴェロニカに向かって機嫌良く笑った。
彼は、自分がヴェロニカたちの大きな陰謀の捨て駒として利用されていることなど、微塵も気づいていない。
ただ、自分をこけにしたセリーナが、百花夜会という大舞台で没落する姿を想像して悦に入っているだけの、愚かで浅薄な男だった。
「ええ。美の秩序を乱す異端には、ふさわしい末路をご用意しておりますわ」
ヴェロニカは、クラウスの無能さを心の中で嘲笑いながら、優雅に扇を揺らした。
「百花夜会では、あなたにも大切なお役目がありますのよ。ベルナー様」
「もちろんです。あの女がどれほど危険で、貴族社会にふさわしくない存在か、私が証言してみせましょう」
「頼もしいこと」
ヴェロニカは微笑んだ。
その笑みは、甘い毒のようだった。
オルドは何も言わず、ただ書類に視線を落としている。
そこには、サロン・ミロワールに対する調査報告と、百花夜会で提出される予定の告発文が整然と並んでいた。
*
翌日の夕刻。
サロン・ミロワールの前に、白粉商会の紋章が刻まれた一台の豪奢な馬車が止まった。
護衛を伴って降り立ったのは、完璧な白粉と分厚いドレスで武装したヴェロニカ・ダルクールだった。
彼女は店に入るなり、無遠慮な視線で店内を見回し、カウンターの奥に立つセリーナに向かって冷ややかな笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、セリーナ・マーロウ。百花夜会を明日に控え、さぞお忙しいことでしょうね」
「ごきげんよう、ダルクール様」
セリーナは、いつも通り静かに礼をした。
ヴェロニカは、護衛に持たせていた銀の盆から、王宮儀典局の蝋封がされた重々しい封筒を取り出し、セリーナの前の机に無造作に置いた。
「百花夜会の招待状よ。王宮装い顧問の候補として、あなたにも末席が用意されたそうよ」
ヴェロニカは、勝ち誇ったように目を細めた。
「せいぜい、ご自分のお客様たちが美しく着飾る姿を、その目で直接見届けることですわね」
招待状という名の、公開処刑への呼び出し状。
毒入りの粉を使って客の肌を傷つけ、その全責任をセリーナに負わせる。
ヴェロニカは、そのシナリオが完璧に進行していると信じて疑っていない。
その目には、圧倒的な優越感と悪意が渦巻いていた。
「……百花夜会。王国中の花が集う夜」
ヴェロニカは、セリーナの耳元で囁くように、残酷な声で告げた。
「そして、あなたの店を終わらせるには、これ以上ない夜ですわ」
圧倒的な権力と悪意の圧。
普通なら震え上がり、泣いて許しを乞うほどの恐怖だ。
セリーナの背筋にも、冷たい汗が流れていた。
だが。
セリーナは、机の上の招待状を静かに手に取ると、一歩も退かずにヴェロニカの瞳をまっすぐに見据えた。
「お心遣い、感謝いたします。ダルクール様」
セリーナの淡い琥珀色の瞳の奥で、職人としての誇り高い闘志が、研ぎ澄まされた刃のように静かに光を放った。
「ええ。当サロンのお客様がどれほど美しく咲き誇るか」
セリーナは、丁寧に微笑んだ。
「その夜、どうか皆様の目で、とくとご覧くださいませ」
ヴェロニカは鼻で笑い、踵を返してサロンを去っていった。
残されたセリーナは、手の中の招待状を固く握り締めた。
王国中の視線が集まる、百花夜会。
理不尽な悪意に満ちた罠を打ち砕き、古い価値観に縛られた美の秩序を終わらせるための、最大の決戦の夜が幕を開けようとしていた。




