第21話 私は、あなたの飾りにはなれません
仮面夜会で勇者レオンが引き起こした波紋は、一夜にして王都全土を激しく揺るがしていた。
魔王を討ち果たした屈強な英雄が、深紅のドレスを纏って人前に立った。
しかもそれが、嘲笑の対象になるどころか、神々しいまでの美しさを放っていたという事実は、人々の価値観を根底から揺さぶるものだった。
「あの勇者様が、あんなにも美しく……」
「強さと美しさは、決して相反するものではなかったのね」
「男だから、女だからという枠にとらわれず、己の望む姿で堂々と立つ。そのお姿に、どれほど勇気をもらったことか」
性別という、誰もが当然のように受け入れてきた役割すらも越えた変身。
サロン・ミロワールの名は、もはや単なる捨てられ令嬢の駆け込み寺ではなく、人が社会から押し付けられる役割を静かに解きほどく場所として、熱狂的な支持を集め始めていた。
だが、熱狂の光が強くなればなるほど、古い秩序を重んじる者たちが落とす闇もまた、深く濃いものになっていく。
*
「……もはや、令嬢たちの化粧遊びなどという次元の話ではありませんわ」
白粉商会の最上階にある執務室で、ヴェロニカ・ダルクールは忌々しげに扇を机に叩きつけた。
その部屋には、宰相補佐オルドと、神殿保守派の高位神官が顔を揃えていた。
「王妃殿下、聖女、そして勇者。あの小娘は、王国の象徴たる者たちの役割すらも次々と揺るがしている」
ヴェロニカの声は、白粉で塗り固めた顔とは対照的に、怒りで震えていた。
「女に身の程を忘れさせ、男にまで本来あるべき姿を見失わせる。あれは美の冒涜であり、社会秩序に対する許されざる反逆ですわ」
「ええ、その通りだ」
オルドが冷徹な声で同調し、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「性別や身分という枠組みを各々が勝手に脱ぎ捨て始めれば、国家の管理は崩壊します。あの店は、あまりにも危険な思想の震源地となっている」
「神の定めた理を乱す魔女め。ただちに異端として糾弾すべきだ!」
高位神官が顔を真っ赤にして叫ぶ。
ヴェロニカは、完璧に塗り固められた顔に、冷たい笑みを浮かべた。
「近々、王都の貴族がこぞって参加する百花夜会が開かれます」
彼女は、机の上に置かれた招待状を指先でなぞった。
「あの大舞台こそが、男爵家を追われたあの職人を、社会的に葬るのに最もふさわしい」
「何か、手を用意しているのですか」
オルドが問う。
ヴェロニカは、ゆっくりと扇を開いた。
「ええ。決定的な証拠を用意して差し上げますわ。あの女の技術が、いかに有害で、人の心を狂わせる毒であるかという証拠をね」
美容の秩序。
政治の秩序。
そして、信仰の秩序。
三つの大きな権力が、サロン・ミロワールを叩き潰すための包囲網を、いよいよ完成させようとしていた。
*
その日の深夜。
サロン・ミロワールの店内で、セリーナは一人、山のように届いた手紙の仕分けをしていた。
感謝や相談を綴ったものもあれば、心ない罵倒や脅迫が書かれたものもある。
連日の激務で身体は泥のように疲労していたが、セリーナの心は不思議なほど澄み切っていた。
レオンが自分の足で立ち、自分の言葉で、これが俺の望んだ姿だと宣言したこと。
その手伝いができたことへの、職人としての静かで確かな喜びが、彼女を満たしていた。
カラン、と。
控えめなベルの音とともに、扉が開いた。
現れたのは、古書商の若旦那に変装したアレクシスだった。
「こんな夜更けにすまない。だが、君の顔を直接見ておきたくてな」
「殿下……」
アレクシスは、セリーナの少し青白い顔色を見て、痛ましそうに眉をひそめた。
「街の噂は聞いているだろう。勇者の件は、王都を真っ二つに割るほどの騒ぎになっている」
その声には、抑えきれない焦りが滲んでいた。
「君の技術と影響力は、もはや私の一存で庇いきれる域を超えつつある。……敵は、なりふり構わず君を潰しに来るはずだ」
「分かっています」
セリーナは、仕分けていた手紙をそっと重ねた。
「ですが、私は逃げるわけにはいきません。私を頼ってくださるお客様がいる限り」
セリーナの揺るぎない眼差しに、アレクシスは胸が締め付けられるような思いに駆られた。
彼女の持つ技術は、古い偏見に縛られたこの国を変える力を持っている。
だが、その力のせいで、彼女自身が傷つき、恐ろしい矢面に立たされている。
彼女を守りたい。
自分の権力で、彼女の安全を保障したい。
そして何より。
彼女という存在を、誰にも奪われたくない。
ずっと自分の手の届くところにいてほしい。
公的な責務と、一人の男としての切実な感情。
その二つがアレクシスの中で激しく渦を巻き、彼にその言葉を口にさせた。
「君の技術は、王国に必要だ。――私のそばに、来てほしい」
それは、アレクシスにとっては、ほとんど告白と同義の重みを持つ言葉だった。
王太子である自分が、彼女の仕事を認め、彼女の身を守り、これから先も共に歩きたいという、精一杯の申し出だった。
しかし。
セリーナの耳に届いたその言葉は、まったく違う響きを持っていた。
(……私の技術が、王国に必要)
セリーナの心臓が、どくんと大きく跳ねた。
そして、すっと冷えていくのを感じた。
嬉しさはあった。
自分の磨き上げてきた技術が、一国の王太子に認められ、国に必要だと求められたのだから。
職人として、これ以上の栄誉はない。
けれど、彼女の前世からの呪縛が、胸の奥で重く冷たく囁いた。
私は、鏡の前に立つ人間ではない。
鏡の後ろにいる人間だ。
アレクシスが求めているのは、社会の古い価値観を打ち壊すための便利な技術だ。
彼が王として国を導くために必要な、有能な職人だ。
地味で、灰茶色の髪をしたセリーナ・マーロウ自身を求めているわけではない。
それは当然のことだ。
王太子が、男爵家を追われた自分のような女を、一人の女性として望むはずがない。
セリーナは、自分の心にほんの少しだけ芽生えかけていた淡い期待を、冷たい理性で切り捨てた。
「……光栄なお言葉です。ですが、お断りいたします」
セリーナは、まっすぐにアレクシスを見据えて言った。
その声は、微かに震えていた。
「なぜだ。君の身の安全は、私がすべて……」
「殿下」
セリーナは、静かに彼の言葉を遮った。
「あなたが見ているのは、職人の私です。私自身では、ありません」
「な……」
アレクシスは息を呑んだ。
「私の技術が王国に有用だから、おそばに置きたいと仰るのですね」
「違う、私は――」
「ですが、私は、誰かの都合の良い道具になるためにこの店を開いたわけではありません」
セリーナの瞳には、決して譲れない職人としての矜持と、そして深い孤独の色が宿っていた。
「王国に必要な道具としてそばに置かれるのなら、お受けできません」
彼女は自分自身の仕事に誇りを持っている。
だからこそ、その技術を権力の装飾品として消費されることを良しとしなかった。
「私は、あなたの飾りにはなれません」
アレクシスは、言葉を失った。
違う。
そうではない。
君の技術ではなく、君自身を求めているのだと。
君が愛おしいのだと。
そう否定したかった。
だが、自分自身が放った、君の技術は王国に必要だ、という言葉が、呪いのように彼の喉を塞いだ。
自分が無意識のうちに、彼女を国のための有用な存在として語ってしまった。
その事実に、今更ながら気づき、愕然としたのだ。
アレクシスの紫水晶の瞳が、激しい後悔と痛みに揺れている。
その目が雄弁に違うと語っていたが、セリーナは静かに目を伏せ、彼から決定的な距離を取ってしまった。
*
その夜。
王宮の自室に戻ったアレクシスは、一人、深い後悔の中にいた。
頭を抱え、自分が何を言い損ねたのかを噛み締める。
彼女を守りたいという一心で、自分の立場と彼女の才能を結びつけるための大義名分を並べ立てた。
だがその結果、最も大切なものを伝え損ね、彼女をひどく傷つけてしまった。
アレクシスは、その夜になってようやく気づいた。
自分は彼女に、欲しいと言った。
けれど、愛しているとは一言も言っていなかった。




