第20話 勇者様は、綺麗になりたい
深夜の王都。
街灯の灯りも届かない薄暗い路地裏で、サロン・ミロワールの重い木の扉の前に、ひとつの巨大な影が立ち尽くしていた。
身長は優に二メートル近くあるだろう。
丸太のように太い腕と、岩のように隆起した胸板。
背中には、彼自身の身の丈ほどもある無骨な大剣が背負われている。
魔王軍の残党を討ち果たし、この国を救った最大の英雄――勇者レオン。
戦場ではいかなる強敵の前でも決して退かなかった彼が、今、小さな美容サロンの扉の前で、まるで怯える子供のように何度も手を上げては下ろし、ためらっていた。
「……こんな時間だ。やはり、迷惑だろう。それに、俺のような男が……」
自嘲するように呟き、踵を返そうとしたその時だった。
ぎい、と内側から扉が開き、暖かな光とカモミールの香りが路地に漏れ出した。
「扉の前で立ち尽くされては、夜風が冷たいでしょう。どうぞ、中へお入りください」
そこに立っていたのは、紺色の仕事着を身にまとったセリーナだった。
彼女は、目の前にそびえ立つ、血と鉄の匂いを染み込ませた大男を見ても、悲鳴を上げることも、驚きに目を見張ることもなかった。
ただ、一人の客を迎え入れる、どこまでも静かで職人らしい眼差しがそこにあった。
レオンは息を呑み、身を縮こまらせるようにして、そっと店の中へと足を踏み入れた。
*
「温かいハーブティーです。まずは、お身体の緊張を解いてくださいませ」
斜めに配置されたカウンセリング用の小机。
特注の頑丈な椅子に窮屈そうに腰掛けたレオンの前に、セリーナは湯気を立てるカップをそっと置いた。
レオンの巨大な手には、剣の素振りでできた分厚いタコと、無数の傷跡が刻まれている。
彼はティーカップの取っ手をつまむように持ち、一口飲んで、長く重い息を吐き出した。
「……驚かないのだな。こんな夜更けに、むさ苦しい男が美容の店を訪ねてきたというのに」
「当サロンは、ご自身の見せ方を取り戻したいと願う、すべての方のための場所ですから」
セリーナの言葉に、レオンは自嘲するような笑みを浮かべた。
セリーナの彩眼は、レオンの全身を覆う重く沈んだ色を捉えていた。
それは、戦場で血を吸い続けたような硬い鉄の色。
しかし、その冷たい鉄の奥底に、微かに揺らめくような、熱を帯びた赤と銀の光が押し込められているのが視える。
「俺は……魔王軍を討伐して以来、どこへ行っても男らしい勇者であることを求められてきた」
レオンの低い声が、静かなサロンに落ちた。
「誰もが俺の筋肉を称賛し、大きな剣を振り回す姿に歓声を上げ、勲章を胸に飾ることを望んだ」
彼の視線が、机の木目に落ちる。
「だが、俺の本当の心は……そんなものにはなかった。俺は、幼い頃から、きらきらと輝く宝石や、美しい刺繍が施されたドレスを見るのが好きだった。……俺も、あんな風に美しく着飾ってみたいと、ずっと密かに憧れていたんだ」
屈強な勇者の口から紡がれる、あまりにも切実な願い。
彼はそこで言葉を切った。
笑われると思ったのだろう。
気味が悪いと。
剣を握るだけの男が何を狂ったことを言っているのかと。
そう蔑まれるのを待つように、身を固くしていた。
しかし、沈黙を破ったセリーナの声は、どこまでも穏やかで、澄み切っていた。
「美しいものに憧れる心に、性別はありません」
レオンが弾かれたように顔を上げる。
セリーナは、まっすぐに彼の瞳を見つめ返していた。
「剣を振るう強さと、美しい装いを愛する心。その二つは、決して相反するものではないはずです。……レオン様。あなたは、どうなりたいのですか?」
「俺は……」
レオンの瞳の奥で、押し殺してきた感情が堰を切ったように溢れ出した。
彩眼に映る鉄の色に亀裂が入り、内側の赤と銀の光が強く脈打ち始める。
「一度でいい。俺は、俺の人生で一度だけでいいから……美しいと言われてみたい。滑稽だと笑われるかもしれない。気持ち悪いと石を投げられるかもしれない。それでも……」
「一度だけでいいなんて、誰が決めたのですか」
セリーナは、力強く、しかし優しく彼の手を包み込んだ。
その言葉の響きに、レオンの目から大粒の涙がこぼれ落ち、無骨な頬を伝って机の上に落ちた。
「当サロンに、不可能はありません。レオン様、あなたのその憧れを、現実の姿に仕立て上げましょう」
*
セリーナは、大鏡の前にレオンを立たせ、職人としての冷静な目で彼の全身を分析した。
彼の要望は、可憐なお姫様のように着飾りたい、という憧れに近いのかもしれない。
しかし、それをそのまま実行すれば、彼の骨格や筋肉と致命的な不協和音を起こし、結果的に彼自身が深く傷つく装いになってしまう。
(彼の強さ、生きてきた道を消す必要はまったくありません。それを打ち消すのではなく、調和させ、彼にしか表現できない圧倒的な美へと変換するのです)
セリーナが目指したのは、か弱い姫君ではなく、戦場に舞い降りる戦乙女のような、気高く力強い美しさだった。
「レオン様。こちらの布をご覧ください」
セリーナが机に広げたのは、深い深紅の絹布と、鈍い光を放つ銀色の装飾布だった。
レオンは震える大きな手で、その滑らかな深紅の布にそっと触れた。
「これを、俺が……」
「はい。着たいと、ご自身の口ではっきりと仰ってください。変身は、あなたご自身の意志でなければ意味がありません」
レオンは、深紅の布から目を離さなかった。
やがて、大きな喉が震える。
「……着たい。俺は、この美しいドレスを着たい」
レオンの口からその言葉が出た瞬間、セリーナは迷いなく筆を取った。
顔を白粉で不自然に塗りつぶすことはしない。
彼が過酷な旅で培ってきた日焼けした肌を活かし、保湿油で内側からの艶を与える。
太く力強い眉は、その形を残しつつ、余分な毛を整えることで、意志の強さを感じさせる洗練されたアーチへと変える。
目元には、銀色と淡い深紅の粉を重ね、彼の鋭い眼光を、憂いを帯びた美しい視線へと和らげた。
唇には、肌の色に負けない深みのある赤を、輪郭をくっきりと取って乗せる。
それは決して甘くなりすぎず、王者のような気品を漂わせていた。
髪は、少し伸びた癖毛に香油を馴染ませ、無造作でありながらも計算された流れを作り、力強さと艶を同居させる。
そして、特注で仕立てたドレス。
深い深紅の生地は、彼の広い肩幅や厚い胸板を無理に隠すのではなく、むしろそれを包み込むような美しいドレープを描いている。
首元や肩には、彼が幾多の死線を潜り抜けてきた証である無数の傷跡が見え隠れしていたが、セリーナはあえてそれを隠さなかった。
装飾には大ぶりの銀の宝石を配置し、彼が背負う無骨な大剣と見事に調和するように整えた。
「……目を開けてください」
セリーナの静かな声に、レオンはゆっくりと目を開けた。
鏡の中にいたのは、男らしさを強要され続けてきた窮屈な勇者でも、無理な装いで自分を偽った大男でもなかった。
強さと美しさが奇跡的な均衡で融合した、見たこともないほど気高く、神々しい存在だった。
無数の傷跡すらも、その美しさを際立たせるための荘厳な装飾のひとつのように見えた。
セリーナの彩眼の中で、レオンを覆っていた硬い鉄の殻が完全に砕け散った。
そこから溢れ出したのは、戦場の猛る炎だけではない。
己のありのままの姿を誇り、真の願いを手に入れた者の、透き通るように美しい深紅と銀の色だった。
「……これが、俺……」
「ええ。とても、美しいです。レオン様」
レオンは鏡の中の自分を見つめ、声を出さずに泣いた。
それは、彼が人生で初めて、心の底から自分自身の願いを許せた瞬間の涙だった。
*
数日後、王都の貴族たちが集う大々的な仮面夜会が催された。
身分や素性を隠し、華やかな衣装で交流を楽しむその夜会の中央広間に、一人の人物が足を踏み入れた瞬間、会場の空気が一変した。
長身。
深紅と銀の豪奢なドレス。
背に背負った巨大な剣。
その組み合わせは、人々が慣れ親しんだ美の型からは大きく外れていた。
しかし、目を背けることができないほどの圧倒的な美しさとカリスマを放っていた。
性別の枠を超越した、まるで神話の戦乙女のようなその姿に、広間にいた者たちは、手に持ったグラスを止めて見惚れていた。
やがて、その人物が顔を覆っていた仮面を静かに外した。
「……嘘だろう。あの方は」
「ま、魔王討伐の勇者、レオン様……!?」
会場に衝撃のざわめきが波のように広がっていく。
信じられないものを見る視線。
戸惑い。
そして、微かな恐れ。
彼らの中にある勇者という固定概念が、目の前の圧倒的な美しさによって揺さぶられていた。
レオンは、逃げなかった。
広く厚い肩を張り、堂々と背筋を伸ばし、自分に向けられる数多の視線を正面から受け止めた。
「俺は、魔王の前に立つより、今日この姿で皆様の前に立つ方が怖かった」
彼の低く響く声が、静まり返った夜会の会場にこだました。
「だが、俺はもう逃げない。誰が何と言おうと、これが俺の望んだ、俺の姿だ」
その言葉の奥にある、血を吐くような勇気と、己を貫く気高さ。
誰かを威圧するのではなく、ただ自分自身であることを宣言したその堂々たる姿に、人々の戸惑いは少しずつ別の感情へと変わっていった。
最初に拍手を送ったのは、古書商の変装を解き、一人の貴族として参加していたアレクシスだった。
それに同調するように、一人、また一人と拍手が伝播していく。
やがて会場は、割れんばかりの称賛の拍手に包まれた。
最初から誰もが理解したわけではない。
だが、誰も最後まで嘲笑うことはできなかった。
その美しさは、茶化すにはあまりにも真剣で、あまりにも凄みを備えていたからだ。
壁際からその光景を静かに見届けていたセリーナは、ふっと目元を和らげた。
彼自身の勇気が、彼自身を救ったのだ。
セリーナの役割は、もう終わっていた。
*
同じ頃。
夜会の二階、貴賓席の暗がりでその一部始終を見下ろしていたヴェロニカ・ダルクールの顔は、白粉の下で青ざめ、微かに痙攣していた。
「……ありえない。あんなこと、許されるはずがないわ……」
彼女の手に握られていた扇が、みし、と嫌な音を立てて歪んだ。
ヴェロニカの心臓を、かつてないほどの巨大な恐怖が鷲掴みにしていた。
あの小娘は、地味な令嬢やふくよかな令嬢を美しくしただけではない。
王妃に白粉を落とさせ、聖女に薔薇色のドレスを着せ、そして今夜、国家の英雄である勇者の役割すらも揺さぶり、美しさを与えてしまった。
これはもう、令嬢の化粧や、流行の主導権争いだけの話ではない。
サロン・ミロワールがやっていることは、この国の身分、性別、役割という、社会を構成する枠組みそのものを揺るがし、個人の手に返していく行為だった。
「……あの店は、このままにしておけない」
ヴェロニカの赤い唇から、呪詛のような声が漏れた。
自分が信じ、守り続けてきた絶対的な秩序が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。
その恐怖を塗り潰すように、ヴェロニカは静かに立ち上がった。
「次は、ただ噂を流すだけでは足りませんわ」
彼女は傍らに控える部下へ、低く命じた。
「百花夜会の招待状を用意しなさい。王都中の花が集う夜に、あの鏡の店の正体を、皆の前で暴いて差し上げます」
その命令は、王都の美容を支配する女が、サロン・ミロワールを正式な戦場へ引きずり出す合図だった。




