第19話 神殿が怒り、民が喝采する
王都の大広場で行われた祈祷会の余波は、一晩にして王都中を駆け巡った。
聖女ミレイユが、神殿の象徴である純白の衣ではなく、薔薇色のドレスを纏って人々の前に立った。
その事実は、民衆と神殿の双方に、まったく正反対の激しい嵐を巻き起こしていた。
「昨日の聖女様、本当に綺麗だった。薔薇色のドレスを着ていても、少しも下品じゃなかったわ」
「ああ。いつもは遠い世界の作り物みたいだったけれど、昨日は初めて、人間の言葉で祈ってくださった気がする。声が、まっすぐに胸に届いたんだ」
民衆の反応は、概ね肯定的だった。
偽りのない言葉で語りかけたミレイユの祈りは、確実に人々の心を打ち、深い感動を呼んでいた。
彼女の新しい装いを手がけたのが、あのサロン・ミロワールであるという噂も、またたく間に広がっていく。
しかし、権力者たちの反応は違った。
*
王都の中心にそびえる壮麗な神殿の奥深く。
大理石の円卓を囲む保守派の高位神官たちは、顔を紅潮させて怒りを露わにしていた。
「断じて許されることではない! 聖女とは無私であり、純白でなければならないのだ! 俗悪な赤や薔薇色など、神への反逆にも等しい!」
「あの忌まわしいサロンが、清らかな聖女様を唆したのだ。女が己の欲望のままに飾り、己の望みを語るなど、秩序を破壊する危険思想に他ならない!」
その怒りの声に、静かに同調する者たちがいた。
美容の秩序を絶対とするヴェロニカ・ダルクール。
そして、政治と身分制度の秩序を重んじる宰相補佐のオルドである。
「神殿の皆様のお怒りはごもっともですわ。あの小娘は、女たちに選ばれるための努力を捨てさせ、身の程をわきまえない勝手な美しさを肯定している。それは、私が守ってきた王都の美の基準を汚す行為」
ヴェロニカが扇で口元を隠しながら冷ややかに言えば、オルドも眼鏡を押し上げて頷いた。
「見た目を変え、立場が要求する役割から逸脱させる彼女の技術は、もはや国家の秩序に対する明確な脅威です。王妃殿下や聖女様までが影響を受けた今、これ以上の放置はできません」
美容の秩序。
政治の秩序。
そして、信仰の秩序。
それぞれ異なる利害を持つ三つの大きな権力が、サロン・ミロワールの排除という一つの目的のために、結びつき始めていた。
*
一方、当のサロン・ミロワールでは、セリーナが静かに道具の手入れを続けていた。
店の外を通り過ぎる馬車の数が増えている。
窓の向こうから向けられる視線も、以前のような好奇心だけではなかった。
警戒。
恐れ。
そして、誰かから吹き込まれた敵意。
来店する客の中にも、いつもより深くフードを被り、通りの角を何度も振り返る者が増えていた。
セリーナの彩眼には、そうした不安や怯えが、暗い灰色の膜のように視えている。
(……風当たりが、一段と強くなりましたね)
セリーナは、ブラシの毛先を指で整えながら小さく息を吐いた。
自分の技術が、王宮や神殿といった巨大な権力を敵に回しつつあることは理解している。
これから先、サロンを訪れる一般の客たちにまで影響が及ばないか。
それが一番の懸念だった。
しかし、後悔は微塵もなかった。
純白の衣を脱ぎ、薔薇色のドレスを纏って鏡を見た瞬間の、ミレイユのあの輝くような笑顔。
誰かの正解で息を詰まらせていた人が、自分自身の姿を取り戻して笑えたのなら、職人としてそれ以上の意味はないのだから。
*
その日の夕刻。
カラン、というベルの音と共に、古書商の若旦那に変装したアレクシスが、いつになく真剣な面持ちでサロンを訪れた。
「セリーナ。神殿側の反発が、予想以上に激しい」
彼は斜めに配置された小机の席に座るなり、単刀直入に切り出した。
「保守派の神官たちが、君のサロンを、聖女を堕落させた魔女の店として異端扱いすべきだと上奏してきた。白粉商会とオルドも、裏で動いているのだろう」
「異端、ですか……。それはまた、大げさなことになりましたね」
セリーナが落ち着いた声でハーブティーを差し出すと、アレクシスはその静かな横顔を深く見つめた。
「安心してくれ。今日の御前会議で、私が明確に君と聖女を擁護しておいた」
「殿下が、自らですか?」
「ああ。権力で彼らをねじ伏せたわけではない。筋を通したまでだ」
アレクシスは、まっすぐにセリーナの琥珀色の瞳を見据えた。
「聖女の祈りが、かつてないほど民の胸に届き、人々に安寧をもたらしたことは紛れもない事実だ。色や装いといった表面的なものは、信仰の本質ではない」
その声には、王太子としての静かな怒りがあった。
「本人の心と意志を殺して着る純白に、一体どれほどの清らかさがあるというのか。……そして、人々の心を救う手助けをしたサロン・ミロワールの技術は、決して異端などと軽んじられるべきものではない。そう伝えた」
王太子という立場でありながら、古い慣習に縛られた重臣たちを相手に、彼女の仕事の価値を堂々と説いてくれたのだ。
その事実が、セリーナの胸の奥に、じんわりとした温かいものを広げていく。
「……ありがとうございます。殿下からそのようなお言葉を頂けるとは、職人として、これ以上の名誉はございません」
セリーナは深く、敬意を込めて一礼した。
それは心からの感謝だった。
だが、あくまで自分の仕事が正当に評価され、守られたことに対する、仕事人としての喜びに他ならなかった。
アレクシスは、嬉しそうに微笑むセリーナを見て、ふと胸の奥が甘く締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女の持つ、ぶれない芯の強さ。
誰かの尊厳を守るため、危険を前にしても退こうとしない静かな優しさ。
そして、王太子である自分に対しても、常に一人の人間として向き合ってくれる対等な眼差し。
単なる有能な技術者としてではなく、それ以上の、かけがえのない存在として大切に思い始めている。
その感情の輪郭が、アレクシスの中で少しずつ形を取り始めていた。
しかし、セリーナのほうは、彼から向けられる熱を帯びた視線に気づいてはいたものの、それを仕事への高い評価と信頼として受け止めてしまっている。
恋愛という方向へ変換するには、彼女は自分のことを、鏡の後ろにいる人間だと規定しすぎていた。
王都の闇が深まり、サロンの窓から見える街灯がぽつりぽつりと灯り始めた頃。
「敵の包囲網は確実に狭まっている。君の身の安全は私が必ず守るが、しばらくは警戒を怠らないでくれ。客層にも、十分注意するんだ」
アレクシスはそう言い残し、サロンを後にした。
*
それから数十分後のことだった。
すでに閉店の準備を始めていたセリーナの耳に、控えめだが、異様に重みのあるノックの音が届いた。
「……はい、どなたでしょうか。本日の営業はすでに終了しておりますが」
セリーナが警戒しつつ重い木の扉を少しだけ開けると、そこには、巨木のように屈強な体格をした大男が立っていた。
ボロボロの厚手の外套をすっぽりと被っているが、その下から覗く腕の筋肉は岩のように隆起し、背中には身の丈ほどもある巨大な大剣を背負っている。
どう見ても、美容サロンに用があるような人物ではない。
歴戦の傭兵か。
あるいは、強盗か。
セリーナが身構えた瞬間、男はフードを深く被ったまま、ひどくおずおずとした、消え入るような声で言った。
「あ、あの……夜分遅くに申し訳ない。ここは、見た目を変えてくれる店だと聞いたんだが」
「ええ、そうですが……。何か、ご事情がおありですか?」
大男は、巨大な手をもじもじと組み合わせながら、足元の石畳を見つめてぽつりと言った。
「俺は、レオン。魔王軍の残党を討伐した勇者パーティの一員だ」
その名を聞いて、セリーナは一瞬だけ目を見開いた。
勇者レオン。
王国中の子どもが木剣を振り回しながら憧れる、最強の戦士。
人々を守るため、誰よりも前に立ち続けてきた英雄。
その彼が、今、サロンの扉の前でひどく小さく見えた。
「……俺、その」
レオンは喉の奥で言葉を詰まらせ、やがて、絞り出すように言った。
「一度でいいから、綺麗だって言われてみたいんだ……」
この国の窮地を救った英雄であり、最強の戦士であるはずの男からの、あまりにも予想外で、あまりにも切実な依頼。
国家権力と神殿からの包囲網が狭まるサロン・ミロワールに、またしてもとんでもない客が舞い込んできた瞬間だった。




