第18話 聖女様は赤いドレスを着たい
王都が夕闇に包まれ、人通りがまばらになった頃。
サロン・ミロワールの重い木の扉が、戸惑うように控えめにノックされた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
セリーナが扉を開けると、そこには深いフードを目深に被った小柄な女性が立っていた。
供の者も連れず、たった一人でこの王都の外れまで足を運んできた彼女は、ルヴァン王国の精神的支柱――聖女ミレイユであった。
セリーナは彼女を斜めに配置された小机の席へと案内し、温かいハーブティーを差し出した。
フードを下ろしたミレイユの姿は、神殿が求める完璧な聖女そのものだった。
装飾の一切ない、分厚く重い純白の衣。
化粧の気配はほとんどなく、血色の薄い唇と、粉をはたかれただけの青白い肌。
香りも、神殿特有の没薬の匂いが微かにするだけだ。
一見すれば、誰もがひれ伏すような清らかな姿である。
だが、セリーナの職人としての目は、ミレイユが膝の上でぎゅっと固く組み合わせている指先の緊張と、感情を押し殺したような薄い表情を見逃さなかった。
セリーナの彩眼には、ミレイユを覆う色がはっきりと視えていた。
分厚く冷たい純白の膜。
しかしその奥底には、今にも弾け飛びそうなほど鮮やかで情熱的な薔薇色が、息苦しそうに押し込められている。
「……あの」
ミレイユは、ティーカップの縁を震える指でなぞりながら、消え入るような声で口を開いた。
「王妃殿下の噂を聞いて、ここへ参りました。その……聖女らしくないことをお願いしても、よろしいでしょうか」
「当サロンは、お客様がご自身の見せ方を取り戻すための場所です。どのような願いであれ、それがあなたご自身の言葉であるなら、私は決して笑いません」
セリーナの静かで温かい声に背中を押されるように、ミレイユはぽつりぽつりと本音をこぼし始めた。
「私……本当は、赤いドレスを着てみたいのです。それに、甘く華やかな薔薇の香りも大好きで……」
ミレイユの瞳が、僅かに潤む。
しかし、次の瞬間には、強い罪悪感に染まった。
「けれど、神殿の長衣を脱ぐことは許されません。聖女たるもの、常に白く、無私であり、己を飾るような俗悪なものを望んではいけないと言われ続けてきました。私が赤いドレスに憧れるなど、神への冒涜で、恐ろしい罪なのです」
彼女の指が、白い衣を握り締める。
「でも、もう、この重い白い服に押し潰されそうで」
神殿が作り上げた、清らかで自己犠牲的な聖女像。
ミレイユは、その理想の型に自分を流し込み、本来の自分自身を殺し続けてきたのだ。
「ミレイユ様」
セリーナは、ミレイユの冷え切った手をそっと両手で包み込んだ。
「あなたに、ご自身の望む色があることは、決して罪ではありません」
「ですが、聖女は清らかでなければ……」
「白だけが、清らかさではありません」
セリーナは、ミレイユの目を静かに見つめた。
「心を押し殺し、息もできないまま祈ることだけが、清らかさなのでしょうか。祈る方の心がすり減ってしまっては、その祈りを受け取る民も、きっと苦しくなってしまいます」
ミレイユは、弾かれたように顔を上げた。
「当サロンで、あなたが息をしやすくなるための仕立てをいたしましょう」
*
セリーナは、ミレイユの望む赤を、いきなり燃えるような真紅にすることは選ばなかった。
彼女はあくまでこの国の聖女であり、人々の信仰を集める存在だ。
ここで極端な反逆の色を纏わせれば、彼女のこれまでの努力と信頼まで傷つけてしまうことになる。
セリーナが選んだのは、ミレイユの芯の強さと優しさを両立させる、深みのある薔薇色だった。
「この色……」
セリーナが用意した薔薇色の絹布に触れた瞬間、ミレイユの瞳にぱっと光が灯った。
「私が探していたのは、こんな色です。……私、これが好きです」
初めてはっきりと自分の意志を口にしたミレイユの表情は、これまでセリーナが見てきたどの瞬間よりも輝いていた。
分厚い純白の衣を脱ぎ、柔らかく身体に沿う薔薇色のドレスを纏う。
神殿の威厳を損なわないよう、ドレスの縁には繊細な金糸の刺繍をあしらった。
青白く見せていた薄化粧を落とし、肌には自然な血色と艶を与える。
唇には、ドレスと同じくほんのりとした薔薇色を乗せ、目元は威厳を保ちつつも、彼女本来の柔らかな意志を感じさせるように整えた。
そして仕上げに、神殿の象徴である白百合の香りに、彼女が愛する甘い薔薇の香油を一滴だけ混ぜ合わせたものを、手首と首筋にそっと忍ばせる。
「目を開けてください」
鏡を見たミレイユは、両手で口元を覆い、言葉にならない息を漏らした。
そこには、神殿の型に押し込められた青白い聖女はいなかった。
血の通った温かさを持ち、自らの足で立ち、深い慈愛と強さを兼ね備えた、一人の女性が立っていた。
セリーナの彩眼の中で、ミレイユを縛っていた純白の膜がふわりと溶け去っていく。
内側に押し込められていた鮮やかな薔薇色が、誇り高く大輪の花を咲かせた。
*
数日後。
王都の大広場で、年に一度の大祈祷会が執り行われた。
数千人の民衆が集まる中、祭壇に姿を現した聖女ミレイユの姿に、広場は水を打ったような静寂に包まれた。
彼女が纏っていたのは、いつもの重苦しい純白の衣ではない。
夕日の光を受けて美しく輝く、薔薇色のドレスだった。
風に揺れるたびに、清らかな白百合と、生命力に満ちた甘い薔薇の香りが、民衆の間にふわりと広がる。
ミレイユは、神殿が用意した原稿を見なかった。
作られた虚ろな笑顔ではなく、頬をほんのりと上気させ、自らの心から溢れ出る言葉で、民の安寧を祈り始めたのだ。
「皆様の痛みが、少しでも和らぎますように」
その声は、これまでよりもずっと柔らかく、ずっと強かった。
「どうか、皆様ご自身の心が、光に満ちた明日を迎えられますように」
その祈りには、確かな血の通った温もりがあった。
遠い空の上の神ではなく、今ここで生きている人間としての祈り。
民衆の中から、誰からともなく感極まったようなすすり泣きが漏れた。
やがてそれは、地鳴りのような割れんばかりの歓声と拍手へと変わっていく。
「おお……なんというお姿だ」
「聖女様のお言葉が、今日は胸に染みる……!」
「聖女様万歳!」
誰もが、新しい聖女の姿に心を打たれていた。
しかし、祭壇の背後に控えていた神殿保守派の高位神官たちは、その光景を顔を真っ赤にして睨みつけていた。
「なんという破廉恥な姿だ! 純白を捨て、色に惑わされるなど!」
「あの忌々しいサロンが、我らの聖女を堕落させたのだ!」
民衆の熱狂的な喝采の裏で、神殿という巨大な権力機構の激しい怒りと敵意が、確かにサロン・ミロワールへと向けられようとしていた。




