第17話 見た目を変える、危険な技術
イザベラ王妃が白粉を落とし、自らの年齢と皺を威厳として纏った姿は、一夜にして王宮中を駆け巡り、貴族社会に激震を走らせた。
若さと白さこそが至上とされてきた王都の社交界で、年齢と皺を隠さず立った王妃の姿は、多くの女性たちに深い感銘を与えた。
そして同時に、その仕立てを行ったサロン・ミロワールの名は、もはや単なる捨てられ令嬢たちの駆け込み寺ではなく、王宮の装いすら左右する存在として、畏怖と熱狂をもって囁かれるようになっていた。
しかし、その熱狂の裏側で、冷ややかな警戒の目を向ける者たちもいた。
*
「……たかが化粧だと侮っていましたが。これは、少々見過ごせない事態ですね」
王宮の奥深く、宰相補佐の執務室。
壁一面に法律書と政務報告書が整然と並ぶ無機質な部屋で、宰相補佐オルドは眼鏡の奥の目を細めた。
彼は極端に理屈っぽく、何よりも秩序と管理を重んじる男だった。
王宮の風紀。
貴族の序列。
そして民の従順さ。
それらが計算通りに動いている状態こそが、彼にとっての正義である。
彼の手元には、サロン・ミロワールに関する詳細な調査報告書が置かれていた。
「婚約破棄された令嬢たちを焚きつけ、辺境伯令嬢に男に媚びない強さを纏わせ、あろうことか王妃殿下の装いまで根底から覆した。……彼女の技術は、単なる化粧の域を超えている」
オルドは、報告書の一枚を指先で弾いた。
「あれは、身分や立場が要求する枠組みを揺るがす、極めて政治的で危険な技術だ」
さらに彼の神経を逆撫でしているのは、最近、アレクシス王太子が頻繁にお忍びで街に出ているという情報だった。
完璧な王太子である彼が、なぜか誰にも気づかれずに街を歩き回っている。
あのサロンの店主が、王太子に別人に見える技術を施しているのではないか。
もしそうだとしたら、見た目を偽り、身分を隠すことを可能にするその技術は、国家の秩序を揺るがす脅威となり得る。
「……お招きいただき、光栄ですわ。宰相補佐殿」
執務室の重い扉が開き、むせ返るような薔薇の香油の匂いと共に、ヴェロニカ・ダルクールが姿を現した。
白粉商会と深く結びつき、王都の貴族美容における権威として知られる女。
オルドは椅子から立ち上がることなく、彼女を迎えた。
「よく来てくれましたね、ダルクール殿。……単刀直入に言いましょう。あのサロン・ミロワールという店は、我が国の秩序にとって有害です」
「ええ。まったく同感ですわ」
ヴェロニカは優雅に椅子に腰掛け、扇をぱちんと鳴らした。
「あの小娘は、女たちに、誰かに選ばれるための努力を捨てさせているのよ。女が自分の見せ方を勝手に選び始めたら、王都の美の基準は崩れます」
ヴェロニカの赤い唇が、冷たく歪んだ。
「白粉商会の権威が損なわれることは、ひいては、私どもを贔屓にしてくださっている貴族の方々の顔に泥を塗ることにもなりますわ」
「その通りです」
オルドは眼鏡を押し上げ、冷徹な声で応じた。
「見た目を変え、身分や立場が要求する枠組みから逸脱させる者は、国家の管理者として厳重に監視せねばなりません。あれ以上、王族や特権階級に近づけるべきではない」
美容の秩序を守りたいヴェロニカと、政治の秩序を管理したいオルド。
目的は違えど、二人の利害は一致していた。
「では、あの店を危険なものとして扱えばよろしいのね」
「ええ。化粧品の安全性、身分詐称の危険、婚約秩序への悪影響。名目はいくらでもあります」
オルドは書類を一枚取り上げた。
「民や貴族は、危険という言葉に弱い。あの店が扱っているものは美ではなく、社会の顔を欺く技術だと示せばいい」
「素晴らしいわ」
ヴェロニカは満足げに目を細めた。
「では、私からも噂の流れを整えましょう。あの小賢しい鏡の店が、社交界にいてはならない異物だと、皆が自然に思うように」
二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。
華やかな美容の世界とは似ても似つかない、紙と法と噂による包囲網が、静かに形を成し始めていた。
*
王宮での不穏な動きを知る由もなく、王都の外れにあるサロン・ミロワールは、連日かつてないほどの盛況ぶりを見せていた。
王妃の変身の噂を聞きつけ、令嬢や夫人たちがこぞって予約を申し込んできたのだ。
セリーナは休む間もなく、一人ひとりの客と向き合い、筆を振るい続けていた。
しかし、忙しい日々の合間に、セリーナは確かな違和感を感じ取っていた。
店の外を通り過ぎる人々の視線。
面白半分の好奇心ではない。
まるで、何か危険なものを遠巻きに眺めるような、硬く濁った警戒の色が混じり始めている。
来店する客の中にも、噂を恐れるようにフードを深く被り、何度も背後を振り返る者が増えていた。
セリーナの彩眼には、その不安や怯えが、暗い灰色の膜のように視えていた。
(……誰が何を仕掛けているのかは、分かりません。ですが、私のやり方が、特定の誰かの逆鱗に触れていることだけは確かですね)
セリーナの彩眼は、あくまで感情や状態を色として視るだけの能力だ。
読心術でも、透視能力でもない。
誰が、どのような思惑で自分を狙っているのか、具体的な事実までは分からない。
だからこそ、見えない敵の存在は不気味だった。
*
「セリーナ。少し、警戒を強めた方がいい」
その夜、古書商の若旦那に変装してサロンを訪れたアレクシスが、低い声で忠告した。
セリーナは手入れしていたブラシを置き、彼を見た。
「王宮で、何か動きが?」
「ああ。王宮の一部で、君の技術を、身分詐称に繋がる危険なものとして問題視する動きがある」
アレクシスの声には、抑えた怒りが滲んでいた。
「おそらく、白粉商会と繋がる者たちが扇動しているのだろう。私も手を打つが、事を荒立てれば、君のサロンに直接的な被害が及ぶ可能性がある。慎重に動かざるを得ない」
この国で最も権力を持つ王太子でさえ、複雑に絡み合った貴族の利害と商会の暗躍を、力業だけでねじ伏せることはできない。
それを聞いて、セリーナが怖くないわけではなかった。
彼女は実家から勘当された貧乏男爵令嬢であり、王宮の権力争いに対抗できる地盤など持っていない。
だが、セリーナの視線は、机の上に置かれた分厚い予約帳へと向けられた。
そこには、自分を否定され、傷つきながらも、本当の自分を取り戻したいと願う女性たちの名前が、びっしりと書き込まれている。
ここで逃げ出せば、彼女たちは再び、息苦しい流行の鎧の中に閉じ込められてしまう。
「ご忠告、ありがとうございます。殿下」
セリーナは顔を上げ、アレクシスに向かって静かに微笑んだ。
その瞳には、恐怖を上回る、職人としての確固たる矜持が宿っていた。
「ですが、見た目を変える技術が危険なのではありません」
アレクシスは、黙って続きを待った。
「誰かの決めた見た目の正解で、人の心と人生を縛り付けることの方が、ずっと危険で、恐ろしいことだと私は思います」
アレクシスは、その揺るぎない言葉に一瞬息を呑み、やがて深く頷いた。
「……君は、本当にぶれないな」
「職人ですから」
セリーナは、いつものように静かに答えた。
アレクシスの胸に、敬意とは少し違う、だがまだ名をつけるには早い感情が灯る。
この人は、自分のために戦っているつもりなどないのだろう。
ただ、目の前の客の尊厳を守るために、当然のように立っているだけだ。
その姿が、ひどく眩しかった。
*
数日後。
見えない包囲網が狭まる中、サロン・ミロワールのポストに、紋章の蝋封がされた一通の重々しい手紙が届いた。
それは、王宮からのものでも、貴族からのものでもなかった。
国教である神殿の奥深く。
神に仕え、純白の衣を纏うことを義務付けられた、至高の存在。
聖女ミレイユからの、密かで切実な来店の予告であった。
『――私から、この重い白い服を脱がせてください』
セリーナはその一文を、しばらく黙って見つめていた。
やがて、静かに手紙を閉じる。
また一人、誰かが自分の色を取り戻すために、鏡の前へ来ようとしている。
たとえその先に、どれほど大きな波紋が待っているとしても。
「……お待ちしております。聖女様」
サロンの奥で、磨き上げられた大鏡が、静かに夕暮れの光を映していた。




