第16話 皺は、笑ってきた時間の証です
ヴェロニカ・ダルクールからの静かな、しかし決定的な宣戦布告を受けた翌日。
王都の外れにあるサロン・ミロワールの前に、紋章を持たない一台の地味な、しかしひどく堅牢な作りの馬車が静かに横付けされた。
「セリーナ・マーロウ。道具を持参し、ただちに同行しなさい」
降り立ったのは、身なりの整った初老の侍女だった。有無を言わせぬその口調と、立ち振る舞いの端々に滲む洗練された空気から、セリーナは事態を正確に察知した。
向かう先は、王宮。白粉商会の息がかかった貴族たちがひしめく、いわば敵の総本山である。
セリーナは動じることなく、いつもの仕事道具を詰めた革鞄を手に取り、静かに馬車へと乗り込んだ。
王宮の裏門から人目を忍ぶように案内されたのは、重厚な扉の奥にある豪奢な私室だった。
部屋の中央、ビロードの長椅子に腰掛けていたのは、この国の最高位に君臨する女性――ルヴァン国王妃、イザベラその人であった。
セリーナは深く、最上級の礼をとった。
「面を上げなさい。……あなたが、アレクシスが密かに目をかけているという、噂の魔法使いね」
王妃イザベラの声は、王族としての威厳に満ちていた。しかし、セリーナの職人としての目は、一瞬で彼女の「無理」を見抜いていた。
上質な絹のドレス。王家を象徴する豪奢な宝石。だが、彼女の顔には、息が詰まるほど分厚い白粉が塗りたくられていた。
目元の小皺や、頬のたるみを必死に隠そうとした痕跡。そのせいで、彼女が本来持っているはずの豊かな表情が死に、まるでひび割れかけた石膏像のように強張ってしまっている。
セリーナの彩眼には、王妃の誇りを示すはずの「深く高貴な深紅のオーラ」が、焦燥感という名のどす黒い靄に侵食され、今にも消え入りそうに揺らいでいるのが視えた。
「魔法使いではございません。しがない一介の職人でございます。本日は、どのようなご用命でしょうか」
「……私を、若く見せなさい」
イザベラは、扇を強く握り締めながら言った。その指先が、微かに白くなっている。
「最近、陛下のお側に、若い伯爵令嬢が侍るようになったという噂が立っているの。肌は透き通るように白く、花のように若い娘だと。……私はもう、王の隣に立つには古びてしまったのではないかと、民や貴族たちが囁いているのが聞こえるわ。お願いよ。あの若い女に負けないように、私のこの見苦しい皺を消して、若々しく見えるようにしてちょうだい」
国母としての威厳の奥からこぼれ落ちた、一人の女性としての切実な恐怖と自信の喪失。
王宮の「若く、白い女が至上である」という古い価値観が、この気高い王妃の心すらも蝕んでいたのだ。
セリーナは、静かに首を振った。
「お断りいたします」
「……なんだと? 王妃である私からの命が聞けないというの?」
イザベラの声が鋭く尖るが、セリーナは怯むことなく、まっすぐに王妃の瞳を見据えた。
「王妃殿下。若返りの魔法は、私には使えません。それに……この美しい皺を白粉で埋めて隠してしまうなど、職人として到底見過ごすことはできません」
「美しい皺、ですって? 馬鹿にしているの?」
「いいえ。殿下、この目尻の皺は、殿下がこれまで、陛下やアレクシス殿下、そしてこの国の民に、どれほど多くの愛情深い微笑みを向けてこられたかの証ではありませんか」
セリーナの声は、深く、静かに王妃の心に浸透していった。
「皺は、あなたが笑ってきた時間の証です。国を支え、愛してきた尊い年月の結晶です。それを『見苦しい』と白粉で消し去ってしまうのは、あなたご自身の人生を否定することに他なりません」
「私の、人生……」
「若さに戻る必要など、どこにもありません。若い娘には決して出せない、今の王妃殿下にしか出せない圧倒的な美しさが、そこにあります。隠すのを、おやめになりませんか」
イザベラの瞳が大きく揺れた。
若さを失っていくことに怯え、白粉商会の勧めるままに必死に肌を塗りつぶしてきた。しかし、鏡を見るたびに、そこに映るのは「若作りをした滑稽な初老の女」でしかなかったのだ。
イザベラは、震える手で自分の頬に触れ、やがて、深く、長い息を吐き出した。
「……あなたのその鏡には、私がどう映っているのかしらね。いいわ、好きになさい」
「承知いたしました。では、殿下の『時間』を、極上の美しさに仕立て上げましょう」
セリーナは、温かい湯で絞った柔らかい布を手に取り、王妃の顔を覆っていた分厚い白粉を、ゆっくりと、丁寧に拭き取っていった。
白塗りの仮面が剥がれ落ち、年齢を重ねた素肌が現れる。セリーナはそこに、上質な保湿油をたっぷりと馴染ませ、肌の奥から湧き上がるような自然な艶だけを与えた。
目元の皺は、決して消さない。代わりに、光を集める微細な粉を効果的に配置することで、皺を「老いの影」ではなく「慈愛に満ちた表情の深み」へと変換していく。
口元には、若作りな鮮やかな赤ではなく、王妃の威厳を引き立てる深い葡萄色の紅を引いた。
髪は無理に高く結い上げず、落ち着いた位置でまとめ、豪奢すぎるダイヤモンドの代わりに、しっとりとした光を放つ最高級の黒真珠をあしらう。
「目を開けてくださいませ、殿下」
鏡を見たイザベラは、言葉を失った。
そこにいるのは、若さにしがみつく痛々しい女ではない。
年輪を重ねたからこその重厚な美しさと、国母としての揺るぎない威厳、そしてすべてを包み込むような深い慈愛を持った、真の王妃の姿だった。
セリーナの彩眼の中で、王妃のオーラを濁らせていたどす黒い靄が晴れ、深く高貴な深紅の色が、王妃の背後に荘厳な炎のように燃え上がった。
*
その日の午後、王宮の庭園で開かれた貴族たちの茶会。
会場の中心には、噂の「愛妾候補」である若い伯爵令嬢が、得意げな顔で取り巻きを引き連れていた。彼女は白粉商会の最新の粉で肌を真っ白に塗り、これ見よがしに若さと華やかさをアピールしている。
そこへ、広間の大扉が静かに開かれた。
「王妃殿下、お成り」
その場にいたすべての者が、一斉に振り返り――そして、文字通り息を呑んだ。
重厚なミッドナイトブルーのドレスに身を包んだイザベラが、静かな足取りで歩みを進めてくる。
顔は真っ白ではない。目尻には確かに年齢を示す皺がある。しかし、黒真珠の落ち着いた輝きを纏い、静かに微笑むその姿は、あまりにも気高く、あまりにも美しかった。
その圧倒的な「威厳」と「余裕」の前に、愛妾候補の若い令嬢の姿が、途端に色褪せて見えた。
白く塗りたくっただけの薄っぺらい若さなど、この王妃の重ねてきた時間の重み、本物の美しさの前では、安物のガラス玉のようにひどく陳腐で、滑稽なものに成り下がってしまったのだ。
愛妾候補の令嬢は顔を真っ赤にし、逃げるように扇で顔を隠して後退った。
「……見事だ」
少し離れた場所からその光景を見守っていたアレクシスは、生まれ変わった母の誇り高い姿に、深く感嘆の息を漏らした。
彼が見つめる先には、壁際でそっと目立たぬように控えている、地味な灰茶色の髪をした職人の姿があった。
彼女は、王族の権威すらも「真実の美しさ」で塗り替えてみせたのだ。アレクシスの胸の奥で、彼女に対する底知れぬ尊敬と、決して手放したくないという熱い感情が、静かに、だが確実に渦を巻き始めていた。
*
同じ頃。白粉商会の最上階にあるヴェロニカ・ダルクールの執務室。
ガチャン! という鋭い音と共に、最高級の磁器のティーカップが壁に投げつけられ、粉々に砕け散った。
「……王妃殿下が、あの忌々しい小娘の店を……!?」
報告を受けたヴェロニカは、完璧に白く塗られた顔を夜叉のように歪めていた。
王宮の女性たちの頂点であり、白粉商会の最大の顧客基盤でもあった王妃が、「白粉を落とす」という選択をした。それは、ヴェロニカが支配してきた王都の美容の秩序が、音を立てて崩れ去ったことを意味していた。
「許さない……。絶対に、生かしてはおかないわ……!」
もはや、商売の邪魔といった次元ではない。
ヴェロニカの瞳に、セリーナを社会的に、そして完全に抹殺するための、底知れぬ憎悪と殺意が宿っていた。




