第15話 あなたのやり方は、美を冒涜している
その日の午後、サロン・ミロワールの店内は、いつになく穏やかな静寂に包まれていた。
予約の客を見送り、カモミールの香りが漂う店内でセリーナがブラシの手入れをしていると、不意に重い木の扉が開かれた。
カラン、というベルの音が、なぜかひどく冷たく響いた気がした。
「……ごきげんよう。ここが、最近王都で噂になっているというサロンかしら」
声は鈴を転がすように優雅だったが、その背後には圧倒的な圧迫感が潜んでいた。
店に足を踏み入れたのは、黒のビロードに緻密な銀糸の刺繍が施された、重厚で完璧なドレスを纏う女だった。
年齢不詳の、研ぎ澄まされた刃のような美貌。
肌は一寸の隙もなく白粉で整えられ、血の通っていない精巧な人形を思わせる。
そして何より、彼女が足を踏み入れた瞬間、サロンを満たしていた穏やかなハーブの香りが、むせ返るような強烈な薔薇の香油の匂いに塗り潰された。
セリーナは手を止め、静かに立ち上がった。
名乗られなくともわかる。
彼女が、白粉商会と深く結びつき、王都の貴族美容における絶対的権威として名を知られる女、ヴェロニカ・ダルクールだ。
「いらっしゃいませ。私が店主のセリーナ・マーロウです」
セリーナは警戒を一切顔に出さず、あくまで一人の客に対するように丁寧な一礼をした。
「ヴェロニカ・ダルクールよ。……ふん、なるほど。王都の端のこんな小さな店で、あなたのような地味な小娘が、王都の秩序をかき乱しているのね」
ヴェロニカは斜めに配置された小机や、自然光を取り入れる窓を一瞥し、冷ややかな笑みを浮かべた。
セリーナの彩眼が、ヴェロニカの全身を覆う色を捉えていた。
それは、恐ろしいほどに完璧に整えられた色だった。
一点の濁りもなく、計算し尽くされた配色の気配。
しかし、それは命の躍動を感じさせる色ではなく、分厚く冷たい鋼の鎧のように強張っている。
さらにその鎧の奥底に、ひどく冷たく、怯えきった感情が凍りついているのが、セリーナには視えた気がした。
「どのようなご用件でしょうか、ダルクール様。当サロンの予約帳に、あなたのお名前はございませんでしたが」
「予約? 冗談はおやめなさい。私がこんな場所で顔を弄らせるわけがないでしょう」
ヴェロニカは扇を優雅に広げ、口元を隠した。
その瞳だけが、獲物を狙う蛇のように鋭くセリーナを射抜いている。
「単刀直入に言うわ。あなたの店、白粉商会の傘下に入りなさい」
「……傘下、ですか」
「ええ。眼鏡の女を唆し、太った女を甘やかし、日焼けした肌を絶賛する。あなたのやっていることは、私たちが築き上げてきた美の格式に対する明らかな反逆よ」
ヴェロニカの声は、静かだが絶対的な支配欲に満ちていた。
「けれど、貴族の娘たちを一時的にせよ熱狂させたその技術だけは、評価してあげてもよろしくてよ。私のもとで働きなさい。そうすれば、あなたのその奇をてらった手品を、正統な流行として商会で管理してあげるわ」
それは、買収という名の支配だった。
セリーナの技術を白粉商会の中に取り込み、ヴェロニカの都合の良いように歪め、最終的には骨抜きにするつもりなのだ。
「……お申し出は光栄ですが、お断りいたします」
セリーナの声は、どこまでも穏やかで、揺るぎなかった。
「私は、お客様の顔をどなたかの管理下に置くような真似はいたしません。当サロンは、お客様がご自身の見せ方を取り戻すための場所ですから」
「取り戻す? 笑わせないでちょうだい」
ヴェロニカの扇越しの声に、初めて明確な怒りが混じった。
「美には、絶対的な秩序が必要なのよ。女は白く、細く、若く、そして流行に従うこと。それが社交界という戦場における唯一のルールであり、貴族としての務めです。それを無視して、醜い丸みや日焼けを肯定するなど、美の堕落であり、冒涜に他ならないわ!」
ヴェロニカは一歩前へ出た。
強烈な薔薇の香りが、セリーナを威圧するように押し寄せる。
「化粧とは、女が社会で生きていくためのふさわしい顔を作るものよ。本人の望みなど二の次。愚かな娘たちに、自分勝手な美しさを選ばせれば、いずれ彼女たちは社交界で笑い者にされ、破滅するだけ」
ヴェロニカの瞳が、冷たく光った。
「私は、正しい流行という枠を与えることで、彼女たちを救ってやっているのよ」
その言葉の奥底には、彼女自身の古い傷があるのかもしれなかった。
流行という絶対的な枠にすがることでしか、自分を守れなかった痛みが。
しかし、だからといって、その痛みを他人に押し付けることなど、職人として認めるわけにはいかない。
「……ダルクール様。あなたの美しさを、私は否定いたしません。その隙のない装いこそが、あなたご自身を支える誇りなのだと理解しております」
セリーナは、静かに、だが確固たる意志を持って言い放った。
「ですが、流行は、人を縛るためのものではありません。人の魅力に合わせて、選ぶものです」
「……っ」
「その方が息をしやすくなるなら、それがその方の美しさです。反対に、本人が自分自身を嫌いになり、息ができなくなるような装いは、美とは呼べません」
セリーナは、ヴェロニカの目をまっすぐに見返した。
「誰かが押し付けた正解で、お客様の首を絞めるような真似は、私のサロンでは決して扱いません。たとえそれが、王都の絶対的な権威であろうとも」
沈黙が落ちた。
ヴェロニカの顔から一瞬だけ笑みが消え、その瞳の奥で、激しい怒りと、見透かされたことへの僅かな動揺が火花を散らした。
しかし、彼女はすぐにぱちんと音を立てて扇を閉じ、再び氷のような優雅な微笑みを貼り付けた。
「……若い方は、自由と無秩序の区別がつかないものですわね。本当に、愚かで嘆かわしいこと」
ヴェロニカは踵を返し、重い木の扉へと歩き出した。
「良いこと? 美の秩序を乱す異端は、いずれ必ず排斥されるわ。あなたのその曇りなき鏡が、いつまで割られずに済むかしらね」
静かな、しかし明確な脅迫の言葉を残し、ヴェロニカはサロンを去っていった。
彼女の姿が見えなくなっても、むせ返るような薔薇の香油の匂いだけが、いつまでも店内に重くまとわりついていた。
「……窓を開けましょう。少し、空気を入れ替えないと」
セリーナは小さく息を吐き、窓の鎧戸を大きく開け放った。
冷えた外気が流れ込み、残っていた薔薇の香りを少しずつ押し流していく。
白粉商会と、その背後にある王都の美の権威が、いよいよ本格的に自分を潰しに来る。
だが、セリーナの心にあるのは恐怖ではなく、職人としての静かな怒りだった。
「お客様の顔は、誰かの秩序を守るための道具ではありません」
ぽつりと呟き、セリーナはブラシを一本、丁寧に布で拭った。
翌日。
その怒りを試すかのように、サロン・ミロワールへ一通の極秘の書状が届けられることになる。
差出人は、王家。
ルヴァン王国最高位の女性――王妃殿下からの、直々の召喚状であった。




