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婚約破棄された美容職人令嬢の変身サロン 〜見返すためではなく、あなたがあなたを取り戻すために〜  作者: 他力本願寺


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第12話 鏡の後ろにいる人

夜の静寂が包み込む王都の外れ。


 サロン・ミロワールの店内には、柔らかな蝋燭の灯りが揺らめいていた。


「お疲れ様でした、殿下。これで本日の実地試験は終了です」


 セリーナは、小机の椅子に腰掛けるアレクシスの背後に立ち、静かな手つきで彼の変装を解き始めていた。


 無造作に崩していたブロンドの髪を丁寧に梳き直し、王族としての威厳ある分け目に戻していく。


 そして、微かなアルコールを含ませた布で古紙と白檀の香りを拭き取り、彼の本来の香りである、王室御用達の薔薇の香油をごく淡く忍ばせる。


 セリーナの指先が動くたびに、人を威圧しない古書商の若旦那の輪郭が溶け落ち、人を惹きつけてやまない高貴な王太子、アレクシスの姿が鮮明に立ち現れていく。


「……不思議なものだな」


 アレクシスは、目を閉じたまま静かに口を開いた。


「君の手にかかると、自分が何者であるのか、まるで自由に選べるような錯覚に陥る。街を歩いていた時は、私が王太子であることを本気で忘れてしまいそうだった」


「ご自身で、歩幅や視線を見事に制御されていましたから。素材の良さと、殿下の適応力の賜物です」


 セリーナが職人として当然のように答えると、アレクシスは目を開け、真摯な光を帯びた紫水晶の瞳で鏡越しの彼女を見上げた。


「今日、私は初めて本当の民の声を聞いた。王宮に届く報告書がいかに綺麗事に塗り固められているか。そして、白粉商会のような存在が作り出す流行が、いかに民の生活と尊厳を脅かしているか」


 アレクシスの声には、次期国王としての重い怒りと、己の無知に対する悔恨が入り混じっていた。


「人は、見た目で扱われ方が変わる。誰もが生きるために、自分を偽り、身を守るための装いを強いられている」


 アレクシスは振り返り、セリーナをまっすぐに見つめた。


「セリーナ。君のその技術は、ただ人を美しく飾るだけのものではない。偏見を剥がし、人が人として立ち上がるための武器だ。……君の技術は、この王国に必要なものだ」


 それは、この国で最も高貴な男からの、最大級の賛辞だった。


 セリーナは一瞬目を丸くした後、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。


「もったいないお言葉です。私のささやかな技術が、少しでも殿下や、この国のお客様のお役に立てたのなら、職人としてこれ以上の名誉はございません」


 彼女は心から嬉しそうだった。


 しかし、アレクシスは胸の奥に、ほんのわずかな違和感を覚えた。


 彼女は喜んでいる。


 だがそれは、自分自身が認められ、求められた喜びではない。


 あくまで自分の持つ技術の有用性が評価されたことに対する、徹底して裏方としての喜びだったのだ。


 セリーナは一礼すると、アレクシスから離れ、サロンの片付けを始めた。


 小机の上のブラシや香油を木箱に収め、最後に行き着いたのは、部屋の奥に置かれた身の丈ほどもある大鏡だった。


 アレクシスは、無言のまま彼女の所作を目で追っていた。


 そこで、先ほど感じた違和感の正体が、はっきりとした形を持って彼の中に落ちてきた。


(……彼女は、決して鏡の正面に立たない)


 セリーナは、客を鏡の前に座らせる時には、光の入り方、椅子の角度、鏡の傾きを、それはもう神経質なほど完璧に整える。


 客が最も美しく見える状態を作り出すために。


 だが、彼女自身が鏡に触れる時。


 汚れを拭き取るためであっても、彼女は鏡の真正面を避け、必ず斜め横から手を伸ばしている。


 自分の姿が鏡面の中心に映り込むことを、無意識のうちに――あるいは意図的に――避けているように見えた。


「……セリーナ。君は、鏡を見るのが嫌いなのか?」


 アレクシスの不意の問いかけに、鏡を拭くセリーナの手がぴたりと止まった。


「嫌い、ですか? まさか。このサロンで最も大切な道具の一つですよ」


「そうではない。君自身が、鏡に映るのを見るのが嫌なのかと聞いたのだ」


 セリーナは少し困ったように眉を下げ、ゆっくりとアレクシスに向き直った。


 隠し立てするようなことでもない、というように、彼女は静かな声で紡ぎ始めた。


「……以前。遠い昔から、私は人を晴れの日へ送り出す仕事ばかりしてきた気がするのです」


 それは、セリーナが前世で美容部員として、ブライダルヘアメイクとして生きてきた記憶の欠片だった。


「ご自身の容姿に自信が持てず、鏡を見ることを怖がっていた方が、仕上がった自分の姿を見て、ふわりと笑う。私は、その瞬間が何よりも好きでした。誰かが自分を取り戻し、主役として輝く瞬間を見るために、この技術を磨いてきました」


 セリーナの薄い琥珀色の瞳が、遠い過去の美しい記憶を慈しむように細められる。


「私はいつも、鏡の正面に座る方を、その後ろから見守ってきました。だから……私は鏡の後ろにいる人間なのだと、そう思っています。自分がその正面に立つことは考えられませんし、その後ろ側が、私にとっては一番落ち着く場所なのです」


 セリーナは穏やかに笑っていた。


 しかし、アレクシスの目には、その笑顔の奥に深く根付いた諦めの影があるように見えた。


 彼女は、自分に似合う色も、自分を最も美しく見せるための装いも、すべて理解しているはずだ。


 それだけの知識と技術を持っている。


 なのに、彼女は自分の灰茶色の髪をただ一つにまとめ、飾り気のない仕事着を着るだけ。


 自分自身を仕立てることを、まるで最初から選択肢に入れていない。


「……私は、仕立てる側ですから」


 そう言って微笑むセリーナの姿は、ひどく美しく、そしてどこまでも孤独に見えた。


(いつか)


 アレクシスは、静かに拳を握りしめた。


 今はまだ、口には出さない。


 彼女が自分に課している見えない鎖を、力任せに引きちぎるような真似はしたくなかった。


(いつか、君自身が、その鏡の真正面に立ちたいと願う日が来ればいい)


 そんな感情が自分の中に芽生えていることに驚きながらも、アレクシスはそれを深く胸の奥に沈め、立ち上がった。


「夜分遅くまで引き留めてすまなかった。今日の礼は、また改めてさせてもらおう」


「いいえ。殿下のまたのご来店を、心よりお待ち申し上げております」


 王族としての完璧な所作で一礼し、アレクシスはサロンを後にした。


 重い木の扉が閉まり、再びサロンに静寂が戻る。


 セリーナは小さく息を吐き、最後にもう一度、店内の確認をして回った。


 道具はすべて定位置にある。


 床に落ちた髪一本もない。


 明日の予約帳を手に取るため、彼女は部屋の奥へと歩き出した。


 その途中、綺麗に磨き上げられた大鏡の前を通り過ぎる。


 一瞬だけ、大鏡の中心に、灰茶色の髪をした彼女の姿が映り込んだ。


 しかし、セリーナはそちらへ視線を向けることはなかった。


 まるでそこには誰も存在しないかのように、滑らかな足取りで鏡の前を通り過ぎる。


 磨き上げられた冷たい鏡は、今日もただ、主役を送り出す裏方の――彼女の背中だけを、ひっそりと映していた。

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