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婚約破棄された美容職人令嬢の変身サロン 〜見返すためではなく、あなたがあなたを取り戻すために〜  作者: 他力本願寺


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第11話 王太子が初めて聞いた民の声

翌日の午後。


 王都の外れにあるサロン・ミロワールの店内で、セリーナはアレクシスの最終確認を行っていた。


 目の前の青年は、王宮で見せるような光沢のある絹や豪奢なビロードではなく、落ち着いた茶色の上着と暗褐色のズボン、そして目立たない灰色の外套を身にまとっている。


 どれも派手さはない。


 だが、あえて粗末にはしていない。


 古書商の若旦那なら、安物を無理に着るよりも、質の良い地味な服の方が自然だった。


「殿下。本日は王太子殿下ではなく、古書商の若旦那様です。お忘れなきよう」


 セリーナは彼に最後の念押しをした。


「ああ、わかっている。……だが、本当にこれで街を歩けるのか?」


 アレクシスは、少し落ち着かない様子で自分の袖口を引っ張った。


「完璧とは申しません。ですが、髪の分け目を少し崩し、威圧感はかなり和らげています。香りも王室御用達の薔薇ではなく、古紙と白檀を混ぜた落ち着いたものに変えました」


 セリーナは手元のブラシを置き、厳しい職人の目で彼を下から上まで観察した。


 セリーナの心には、身分に対する恐れよりも、職人としての責任が勝っていた。


 どれほど高貴な身分であろうと、今の彼はサロン・ミロワールの客だ。


 完璧に仕立て、無事に街を歩かせるのが彼女の仕事である。


「ただし、油断は禁物ですよ。気を抜けば、すぐに命令する身体に戻ってしまいます。歩幅は少し狭く、視線は人の鼻先へ。人に道を譲られるのを待つのではなく、ご自身から半歩引く。それを忘れないでください」


「肝に銘じよう。君という厳しい家庭教師がついているのだからな」


 アレクシスは口元に微かな笑みを浮かべた。


「では、実地試験に参りましょうか」




     *




 二人が向かったのは、王宮から遠く離れた、王都の庶民街だった。


 貴族街の広く清潔な大通りとは違い、道は狭く曲がりくねり、荷車や馬車の車輪の跡が深く刻まれている。


 道の両側には所狭しと露店が並び、威勢の良い客引きの声や、子供たちが駆け回る笑い声、かんかんと鉄を打つ職人の槌音がひしめき合っていた。


 頭上には色とりどりの洗濯物がはためき、香辛料や焼きたてのパン、そして少しばかりの泥と生活の匂いが混ざり合って漂ってくる。


 王宮の静寂で清浄な空気とは、何もかもが違っていた。


 アレクシスは、目を丸くしてその光景を見渡していた。


 彼が歩いても、誰も道を空けない。


 誰も彼に向かって跪くことはなく、一礼すらしない。


 すれ違いざまに肩がぶつかりそうになり、アレクシスが思わず立ち止まると、大きな木箱を抱えた町人が「おっと、すまねえな兄ちゃん!」と気さくに声をかけて通り過ぎていった。


「……信じられない」


 アレクシスは、町人の背中を見送りながら呆然と呟いた。


「私が街を歩いているというのに、誰もこちらを見ようとしない。まるで私が、風景の一部になったかのようだ」


「それが、普通の人々の暮らしです。若旦那様」


 セリーナは隣を一定の距離を保って歩きながら、静かに告げた。


「誰もあなたの顔ばかり見ているわけではありません。皆、自分の今日の夕飯や、明日の仕事のことで頭がいっぱいなのですから」




     *




 アレクシスは、最初は明らかに戸惑っていた。


 しかし、持ち前の賢さもあり、次第にその距離感に慣れ始めてきたようだった。


 露店で果物を見る際、恰幅の良い店主の女将に「美味いよ、買ってきな!」と声をかけられ、彼は思わず「あ、ああ……そうだな。一つもらおうか」と、ぎこちなく答えた。


 セリーナは、すかさず彼の外套の袖を引いた。


「若旦那様。相手を真正面から見据えすぎです。もう少し視線を外して、柔らかく」


「む……すまない、つい」


「代金も、銀貨を出そうとしないでください。この林檎なら銅貨三枚で十分です。多く払いすぎれば、金払いの良すぎる不自然な客として逆に目立ってしまいます」


「なるほど。物の適正な価値も、金銭の渡し方も、私はまるで知らなかったというわけか」


 アレクシスは不機嫌になるどころか、感心したように頷き、小銭入れから銅貨を数えて店主に渡した。


 民衆と触れ合う中で、彼の中に染み付いていた「人が自分に合わせるのが当然」という感覚が、少しずつ崩れていくのがセリーナにもわかった。


 アレクシスの学ぶ速さと、己の無知を素直に認める器の大きさは、王太子としての真の資質を感じさせた。


「まいど! 兄ちゃん、隣のべっぴんさんは奥さんかい? 仲が良くて羨ましいねえ!」


 店主の気さくな言葉に、アレクシスは少しだけ目を瞬かせ、やがてふっと相好を崩した。


「……ああ。私の頼りになる相棒だよ」


「ただの職人と客です」


 セリーナは即座に訂正した。


 しかし店主は「はいはい、照れなさんな」と豪快に笑うだけだった。


 セリーナは、余計な反論を重ねるよりも、アレクシスの視線がわずかに王太子のそれへ戻りかけていることの方を注意した。


「若旦那様。今の返答は少し堂々としすぎです」


「……そこもか」


「はい。そこもです」


 アレクシスは、困ったように笑った。




     *




 歩き疲れた頃、二人は通りに面した小さな茶屋の店先に腰掛けた。


 粗末な木の椅子と机だが、アレクシスは嫌な顔一つせず、出された温かい麦茶に口をつけた。


「……美味いな。王宮の茶葉とはまったく違うが、これはこれで悪くない」


「高級な茶葉ではありませんが、歩き回った後の乾いた喉には、一番の御馳走ですからね」


 そこで、隣の席に座っていた中年の女たちの会話が耳に入ってきた。


「……そういや、あんたのところの娘さん、肌の具合はどうだい?」


「それがねえ、酷くなる一方で……。白粉商会の新しい粉を使ったら、顔中真っ赤に腫れあがっちまって、夜も眠れないみたいなんだよ」


「ひどい話だねえ。文句は言わなかったのかい?」


「言えるわけないじゃないか。白粉商会に逆らったら、この王都で商売なんてできなくなる。うちの旦那の取引先だって、あそこの息がかかってるんだ」


「それに、あそこの言う流行に乗らなきゃ、奉公先のお屋敷でみすぼらしいって怒られるんだよ。娘も、痛いのを我慢して泣く泣く塗ってるのさ」


「高いくせに、毒でも入ってるんじゃないのかねえ……。貴族様向けの流行なんて、あたしら庶民には押し付けられた迷惑でしかないよ」


「まったくだ。税金もまた上がるって噂だし、貴族様はやりたい放題だね……」


 女たちの声は、決して大きなものではなかった。


 だが、アレクシスの耳には雷鳴のように響いた。


 彼の手が、机の上で強く握りしめられる。


「……これが」


 アレクシスは、低く震える声で呟いた。


「これが、本当の民の声……」


 王宮に上がる報告書には、白粉商会は王都の経済を潤し、民の生活を豊かにしていると書かれていた。


 貴族たちは皆、商会の商品を称賛し、不満など一つも聞こえてこなかった。


 しかし現実は違った。


 強者が作り出した流行という名の権力が、弱い立場の者の肌を焼き、声を奪い、生活を脅かしている。


 その言葉の裏にある、特権階級への諦めと恐怖。


 白粉商会が、王都の美容の権威という立場を利用して、どれほど強引な商売をしているか。


 美容というものが、単なる貴族の趣味や虚栄ではなく、人々の生活と権力に深く結びついていることを、アレクシスは初めて肌で感じ取っていた。




     *




 帰り道。


 夕暮れの空が王都を赤く染め始めていた。


 アレクシスの足取りは、来た時よりも重く、しかしその眼差しはかつてないほど鋭かった。


「セリーナ」


「はい」


「私は、何も知らなかった。人は、着ている服や見た目で、あのように扱われ方が変わるのだな。私が王太子の服を着ていれば、彼らは決して私にあの本音をこぼさなかっただろう」


 アレクシスは、自分の落ち着いた色の上着を見下ろした。


「ならば……見た目を整えること、装うということは、単なる虚栄ではないのだな。権力を持たない者、武器を持たない弱い者にとっての、社会で身を守るための武器にもなる」


 彼がセリーナに向けた視線には、単なる便利な技術者に対するものを超えた、深い理解と尊敬の色が宿っていた。


 セリーナの仕事が、単に顔を美しく飾るだけのものではなく、社会的な意味を持つ重要なものだと、彼は見抜いたのだ。


 セリーナは足を止め、アレクシスを静かに見つめ返した。


 その熱を帯びた視線に気づいたが、彼女はそれをあくまで、自分の職人としての技術と理念が高く評価されたのだと受け取った。


「……ええ。武器にもなります。相手の偏見や押し付けを跳ね返す、強固な鎧にもなります」


 セリーナは、これまでの客たち――エリスやベアトリス、コレットの顔を思い浮かべながら言った。


「けれど、本来は……美容とは、誰かと戦うためのものではないのです。その人が、その人自身の姿のまま、息をしやすくなるためのものです」


 アレクシスは、その言葉を反芻するように黙り込み、やがて深く頷いた。


「息をしやすくするため……。君の仕事は、私が思っていたよりもずっと、深く重いもののようだ」


 その横顔には、国を背負う者としての覚悟と、彼女の言葉の奥にある真実を見つめようとする真摯さが刻まれていた。




     *




 すっかり日が落ち、夜の帳が下りた頃、二人は王都の外れにあるサロンの前に戻ってきた。


 人通りの途絶えた静かな通りで、アレクシスは足を止め、振り返ってセリーナに向き合った。


 その目は、変装の古書商のものではなく、王太子としての気高さと、一人の青年としての誠実な光を帯びていた。


「セリーナ。君がいなければ、私は一生、あの声を聞くことはできなかっただろう。王宮の奥深くで、偽りの平和を信じ込まされたまま生きていたかもしれない」


 彼は、深く敬意を込めて会釈した。


「今日、私は初めて、民の声を聞いた気がする」

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