【ピークエンドの法則】最高の結果を出す「去り際」と「追撃」 3/4
会場の喧騒の中、アリサは研ぎ澄ませた観察眼で次なるターゲットを探した。
無駄撃ちはしない。自分の『ギブ』が最も活きる相手であり、かつ王都ギルドにとっても最大の利益をもたらす大物。
(……あの方ね!)
アリサの視線の先には、豪奢な真紅のドレスに身を包んだ、鋭い眼光を持つ貴婦人がいた。
王都の不動産と巨大倉庫群を牛耳る『金羊毛商会』のトップ、ベアトリス伯爵夫人だ。彼女は常に分刻みのスケジュールで動く、王都で最も忙しい女性の一人として知られている。
今も彼女の周りには、倉庫の貸し出しを求める商人たちが列をなしていたが、ベアトリス夫人は次々と彼らを冷徹にあしらっていた。
「……だから、その賃料ではお貸しできません。次の商談がありますので、これで」
また一人、商人を追い払ってわずかに息をついたベアトリス夫人の前へ、アリサは流れるような所作で進み出た。
「お忙しいところ失礼いたします、ベアトリス伯爵夫人。本日は、冬季に空室となる貴商会の『第七倉庫群』に、新たな賃料収入と、無料の防犯システムをもたらすご提案に参りました」
最初の魔法、【エレベーターピッチ】。
相手の悩みをピンポイントで突く「無駄な空き倉庫の収益化」という結論に、ベアトリス夫人はピタリと足を止めた。
「空き倉庫に賃料収入? 防犯システム? ……ギルドの受付嬢が、面白いことを言うわね。どういうことかしら?」
「はい。冬季は物流が減り、第七倉庫群は稼働率が落ちますよね。そこで、その空き空間を『冒険者たちの冬季室内訓練場』としてギルドが丸ごと借り上げるのです。商会様には確実に家賃が入り、さらに高ランク冒険者たちが昼夜問わず出入りすることで、倉庫周辺の盗賊やネズミに対する完璧な『防犯』が無料で機能します」
【返報性の原理】に基づいた、完璧な価値の提示。
ベアトリス夫人の冷徹な瞳に、明確な『熱』が灯った。
「素晴らしいアイデアね! 確かに冬の維持費と警備費は頭痛の種だったのよ。ギルドが借り上げるなら、支払いの焦げ付きの心配もないわ。……それで、具体的な賃料の相場と、冒険者たちによる器物破損の免責事項はどうなっているの!?」
ベアトリス夫人は完全に食いついた。前のめりになり、身振り手振りを交えながら、矢継ぎ早に【オープン・クエスチョン】を投げかけてくる。
アリサもそれに的確に答え、二人の間の会話の熱量は一気に跳ね上がった。周囲の商人たちが「なんだあの受付嬢は」と驚きの目で見るほど、二人の空間は完璧な盛り上がり(ピーク)を迎えていた。
(すごい! 夫人の目がキラキラしてる! もっと、もっと細かい免責事項や、ギルドの保険制度の話をすれば、ここで一気に契約まで……!)
アリサの持ち前の『勢い』が、アクセルをベタ踏みしようとした。
しかし、その瞬間。アリサの脳裏に、シレーヌの氷のように冷たい声が響き渡った。
『もったいないからこそ、切るのよ!』
(いけない! ここで私が全部喋り尽くしたら、また『お腹いっぱい』にさせてしまう! ここだ、今この絶頂のタイミングで、ブレーキを踏むのよ!!)
アリサはギュッと奥歯を噛み締め、喉まで出かかった「完璧な保険制度のプレゼン」を力ずくで飲み込んだ。
そして、ふわりと一歩引き、最高に美しく、そして名残惜しそうな微笑みを浮かべた。
「……ああ、申し訳ございません、ベアトリス夫人」
「えっ? どうしたの? 保険制度の話の続きは?」
「私としたことが、夫人とのお話があまりにも刺激的で楽しくて、つい長居をしてしまいました。……ふと見れば、あちらで財務大臣閣下が夫人にご挨拶したがっているご様子です。私がこれ以上、王都の華である夫人の貴重なお時間を独占するわけにはまいりません」
アリサはバインダーを胸に抱き、深く、優雅なカーテシー(淑女の礼)をとった。
「えっ、あ、財務大臣……本当ね。……でも、その、訓練場の話は……」
会話を突然打ち切られたベアトリス夫人の顔には、明確な「渇望」が浮かんでいた。
一番面白いところだったのに! 続きはどうなるの!? という、ドラマの最高のシーンで「次回へ続く」と言われた時のような、強烈な飢餓感。
「本日はあくまでご挨拶のみですので、これにて失礼いたします。素晴らしいお時間をありがとうございました」
アリサが潔くクルリと背を向けて立ち去ろうとした、まさにその時。
「ま、待ちなさい!!」
ベアトリス夫人が、周囲の目も気にせずアリサを呼び止めた。そして、真紅のドレスの袖から、自身の紋章が入った最高級の香りがする名刺を素早く取り出し、アリサにスッと差し出した。
「ギルドの受付嬢、アリサと言ったわね! あなた、とても優秀だわ。……この話の続き、絶対に聞きたいの。明日の午後、私の執務室に来なさい。時間を空けて待っているわ!!」
「……はいっ! 喜んで伺います!」
アリサは名刺を両手で受け取り、今度こそ完璧な笑顔を残して、その場から颯爽と立ち去った。
振り返らなくてもわかる。ベアトリス夫人の記憶には今、「話が長くて疲れる小娘」ではなく、「時間を気遣ってくれる優秀な娘との、最高に刺激的で名名残惜しい時間」が、鮮烈に刻み込まれたのだ。
「ふぅぅ……っ! やった、やったぁ!!」
会場の端にあるバルコニーへ逃げ込んだアリサは、ベアトリス夫人の名刺を胸に抱きしめ、音が出ないようにピョンピョンと跳ね回った。
「勢い」をコントロールし、自らの意思で「去り際」を演出する。これまでの彼女には絶対にできなかった、高度なビジネスの魔法が完全に決まった瞬間だった。
「見事なブレーキだったわ、アリサ」
夜風が吹き抜けるバルコニーの暗がりから、シレーヌが満足げな拍手と共に現れた。
「シレーヌ先輩! 私、できました! 一番盛り上がってるところで話をぶった切るの、すごく勇気がいりましたけど……でも、夫人のあの『待ちなさい!』って声を聞いた時、心の中でガッツポーズしちゃいました!」
「ええ。相手に『すべてを知った』と満足させず、『もっと知りたい』という飢餓感を持たせたまま去る。それが、最高の印象を相手の脳に焼き付ける【ピークエンドの法則】よ。……さあ、これで明日へのアポイント(約束)も取れた。完璧ね」
「はいっ!」
アリサが嬉しそうに頷いた、その時だった。
「……完璧? いえ、まだよ、アリサ」
シレーヌが扇子を広げ、夜の王都の街並みを見下ろしながら、フッと妖しく微笑んだ。
「名刺を交換し、アポイントを取った。普通の人間は、ここで安心して『明日』を待ってしまうわ。でも、それでは三流よ。魔法を『絶対のもの』にするための、最後の仕上げ……【追撃】の時間が始まるわよ」
「つ、追撃……!?」
アリサはゴクリと唾を飲み込んだ。
大交流会の夜は、まだ終わらない。




