【ピークエンドの法則】最高の結果を出す「去り際」と「追撃」 4/4
「追撃……? アポイントはもう取れたのに、これ以上何をするんですか?」
バルコニーの暗がりで首を傾げるアリサに、シレーヌは夜空に浮かぶ月を扇子で指し示した。
「アリサ、ベアトリス夫人は今日、この会場で何十人、下手をすれば百人以上の商人と挨拶を交わしているわ。……明日の午後になる頃には、彼女の脳内であなたの顔や名前は、他の有象無象の記憶と混ざって『薄れた記憶』になってしまう可能性が高いのよ」
「えっ……! あんなに盛り上がったのに!?」
「人間の記憶力なんてそんなものよ。熱狂も、美しい去り際も、時間が経てば必ず冷める。だからこそ、相手の記憶が定着する前――【鉄は熱いうちに打つ(二十四時間以内のフォローアップ)】が絶対に必要なのよ」
シレーヌはアリサのバインダーをコツンと叩いた。
「多くの三流は、名刺をもらって満足し、数日経ってから『先日はありがとうございました』とありきたりな手紙を送るわ。でも、一流は違う。今日、相手が屋敷に帰ってドレスを脱ぐ前、あるいは明日の朝一番の紅茶を飲むタイミングで、誰よりも早く『追撃の手紙』を届けるのよ」
「誰よりも早く……!」
「内容は簡潔に三つ。第一に『本日はありがとうございました』という感謝。第二に『明日の午後、お会いできるのを楽しみにしております』というアポイントの再確認。そして第三に……」
シレーヌは妖しく微笑み、アリサの耳元で囁いた。
「さっきあなたがわざと語り残した『有益な情報』の欠片を、一つだけ添えておくの」
その言葉に、アリサの目にバチッと閃きが走った。
「っ……! 分かりました! 私、今すぐ手紙を書きます!」
アリサはバルコニーの隅にある小さなテーブルにバインダーを広げ、猛烈な勢いで羽ペンを走らせた。
文章は長くしない。あくまで簡潔に、しかし相手の心に強烈な印象を残すように。
書き上げた羊皮紙を、ギルド職員だけが使える『速達の魔法鳩』の足に結びつける。
「いってらっしゃい! 夫人のお屋敷へ、誰よりも早く届けてね!」
魔法鳩は夜空に向かって飛び立ち、瞬く間に王都のネオンの中へと消えていった。
――それから一時間後。
大交流会を終え、疲労困憊で自室に戻ってきたベアトリス夫人は、侍女から一通の短い手紙を受け取った。
「……王都ギルドの、アリサ? ああ、あの受付嬢からね。こんな夜更けにわざわざ手紙なんて、随分と気が利くじゃない」
夫人が封を切ると、そこには美しい文字でこう書かれていた。
『ベアトリス伯爵夫人へ。
本日は素晴らしいお時間をいただき、誠にありがとうございました。
明日の午後、お約束通り詳しい資料をお持ちいたします。
追伸:お気にされていた「冒険者による器物破損の免責事項」ですが、ギルドの全額補償保険が適用されることが確認できました。明日はその証書も併せてお持ちいたします。
どうか今夜は、温かいお茶でゆっくりとお疲れを癒やされますように。 アリサより』
「……っ!」
手紙を読んだベアトリス夫人の目が、驚きに大きく見開かれた。
あの短い会話の中で自分が一番懸念していたポイント(免責事項)に対する明確な答え(ギブ)が、たった数行の中に完璧に収められている。
しかも、他の誰よりも早く、その日のうちに届いたのだ。
「……素晴らしいわ。この手際の良さ、ただの受付嬢の器ではないわね」
夫人の疲労感は吹き飛び、彼女の脳内にある「アリサ」という少女の記憶は、他の有象無象の商人たちを完全に蹴散らし、圧倒的な『最優先事項』として強固に定着した。
「明日が楽しみになったわ。……最高の条件で契約を結んであげなきゃね」
夫人は手紙を大切に机の引き出しにしまい、上機嫌で微笑んだ。
一方、王都ギルドの宿舎に戻ったアリサは、寝る前のランタンの灯りの下で、最後の「お仕事魔導書」を完成させていた。
【私のためのお仕事魔導書】
新シリーズ第5の魔法:ピークエンドの法則とフォローアップ(追撃)
人の記憶は「一番盛り上がった瞬間」と「最後の瞬間」だけで決まる!
自分の言いたいことを全部喋り尽くして、相手を疲れさせるのは三流のやること!
【相手の心を完全に掴む、最高の終わらせ方】
腹八分目で自ら切る!
会話が最高潮に達し、相手が「もっと話したい!」と思っている瞬間に、相手の時間を気遣って潔く身を引く。
飢餓感(渇き)を残す!
すべてを語らず、「続きはまた後日」と名残惜しさを演出することで、次のアポイントが確実になる。
鉄は熱いうちに打つ(24時間以内の追撃)!
相手の記憶が薄れる前に、誰よりも早く「感謝」と「小さな有益な情報」を添えた短いメッセージを送る! これで記憶の定着は完璧!
「ふふっ。できた……! これで、シレーヌ先輩から教わった5つの魔法が全部揃ったわ!」
アリサはバインダーをパタンと閉じ、達成感に満ちた笑顔でベッドにダイブした。
「エレベーターピッチ、オープン・クエスチョン、ウィークタイズ、返報性の原理、そして……ピークエンドの法則!」
最初は大物たちを前に「壁の花」として震えていた自分が嘘のようだ。
今の彼女は、どんなに気難しい相手でも、どんなに立派な大商人でも、恐れることなく堂々と渡り合うことができる。魔法は、特別な才能がなくても、正しく学び、正しく実践すれば、誰にでも平等に強力な武器となるのだ。
「明日のベアトリス夫人との商談、絶対に成功させるんだから!」
筆頭受付嬢の熱い決意を乗せて、王都の夜は更けていく。
そして翌日、アリサがこれまでに広げてきた「人脈の種」が、王都ギルドを揺るがすような、一つの巨大な「奇跡」を巻き起こすことになるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった――。




