【返報性の原理】奪う前にまず与える「ギブ・アンド・テイク」 3/4
「ふふっ。百点満点の立ち回りだったわね、アリサ」
庭園の隅、大きな樫の木の木陰へと小走りで戻ってきたアリサを、シレーヌが優雅な拍手で出迎えた。
「シレーヌ先輩! ど、どうでしたか? 私、本当に何も要求せずに逃げてきちゃいましたけど……あとから『やっぱり名刺交換だけでもしておけばよかった』って、少し後悔しそうで……」
アリサはドキドキと早鐘を打つ胸を押さえながら、心配そうに上目遣いで尋ねた。
せっかく大物と会話できたのだ。受付嬢としての本音を言えば、王都ギルドの利益のために、少しでも繋がりの証を手に入れておきたかった。
「そこがいいのよ。あそこであなたが『有益な情報を教えたんだから、名刺をください』と言ってしまったら、それは魔法でもなんでもない、ただの『等価交換の取引』に成り下がってしまうわ」
シレーヌは、ウェイターから受け取っていた冷たい果実水のグラスをアリサに手渡した。
「人間関係にはね、【信頼残高】という目に見えない銀行口座があるの。
テイカー(奪う者)は、出会った瞬間から『くれ、くれ』とその口座から無理やりお金を引き出そうとして、相手を破産させるわ。
マッチャー(バランスを取る者)は、『これをあげるから、あれをちょうだい』と、常に口座の残高をゼロに保とうとする。これでは、いつまで経っても関係は深くならない」
「信頼残高……。じゃあ、ギバー(与える者)は?」
「ギバーは、見返りを求めずにひたすら相手の口座に『価値』を貯金し続けるの。……するとどうなると思う? 人間は【返報性の原理】によって、自分の中に相手からの借金(恩)が積み上がっていくことに、心理的な耐え難い『痒み』を覚えるようになるのよ」
シレーヌは扇子を閉じ、先ほどアリサが立ち去ったガゼボの方角をスッと指差した。
「見てごらんなさい。あなたの蒔いた『ギブの種』が、今まさに相手の心の中で暴れ出しているわ」
アリサが樫の木の陰からそっと覗き込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
先ほどまで「誰も近づくな」というオーラを出して不機嫌そうに座っていたウォン支店長が、ガゼボを飛び出し、キョロキョロと血相を変えて庭園の中を歩き回っていたのだ。
「……いない。どこへ行った、あの王都ギルドの受付嬢は!」
ウォン支店長は、すれ違う貴族たちの挨拶もそこそこに、人混みを掻き分けて必死に何か(アリサ)を探していた。
彼の胸中には、東方の商人としての強烈なプライドと、人間としての『返報性の原理』が渦巻いていたのだ。
(あんなに価値のある情報を、無償で受け取ったまま終わらせるなど、商人の名折れだ! このままでは『王都の受付嬢に一方的な恩を着せられた哀れな男』になってしまう。……何か、何かお返しをしなければ、今夜は気持ち悪くて眠れん!)
恩を返したくて、返したくてたまらない。
ウォン支店長は、まるで熱病にでも浮かされたように、広い庭園の中を彷徨い歩いた。
そして――。
「あっ! い、いたぞ!!」
樫の木の木陰で果実水を飲んでいたアリサの亜麻色の髪を見つけるなり、ウォン支店長はなりふり構わず、小走りで駆け寄ってきた。
その迫幕に、アリサは思わず「ひゃっ」と肩をすくめた。
「アリサ……殿、と言ったな! 探したぞ!!」
息を切らしたウォン支店長は、アリサの目の前でピタリと止まると、先ほどの冷たい態度からは想像もつかないほど、深く、そして丁寧にお辞儀をした。
「先ほどは、無礼な態度をとってしまい本当に申し訳なかった! 君からのアドバイス通り、部下を第三窓口へ走らせたところ、本当に即日で倉庫の審査が通ったとの報告を魔法通信で受けたところだ。君は、我が商会の恩人だ!」
「えっ……あ、いえ! そんな、大げさな……私はただ、知っていることをお伝えしただけで……」
突然の猛烈な感謝に、アリサは戸惑いながらも笑顔で返した。
しかし、ウォン支店長は「いや、それだけではないのだ!」と強く首を振った。
「君は、見ず知らずの私に無償で価値を与え、見返りも求めずに立ち去った。……私は王都の人間を、己の利益しか考えない『テイカー(奪う者)』ばかりだと軽蔑していた。だが、君のような『本物のギバー(与える者)』がいるギルドなら、私は心から信頼できる!」
ウォン支店長は懐から、見事な翡翠の装飾が施された、重厚な木箱を取り出した。
パカッと開かれたその中には、純金で作られた東方貿易商会の最高位の証明『大口取引先の証(VIPカード)』が輝いていた。
「アリサ殿。どうか私の方から、お願いさせてほしい。我が商会が王都で展開するすべての物流ルートの斡旋と、東方から持ち込む『魔法の絹』や『霊薬』の優先販売権……さらには専属の護衛依頼まで、すべて君の所属する『暁の翼』に任せたいのだ!!」
「えええええっ!?」
アリサは目を丸くして、思わず頓狂な声を上げてしまった。
優先販売権に、物流ルートの斡旋、さらに専属護衛まで。それは、王都のすべてのギルドや商会が喉から手が出るほど欲しがっていた、莫大な利益を生む「超特大の独占契約」だった。
「こ、こんなすごい契約、私の一存では……それに、情報のお礼としては大きすぎます!」
「構わん! 君という『信頼できる人間』を見つけたことの方が、我が商会にとっては大きな利益だ。どうか、この名刺を受け取ってくれないか! いや、受け取っていただかないと、私が困るのだ!」
完全に立場が逆転していた。
交流会とは本来、名の知れない者が大物に「お願いします」とすり寄る場所だ。しかし今、大商人であるウォン支店長の方から、一介の受付嬢に対して「どうか契約させてくれ」と必死に頭を下げているのだ。
「……素晴らしいわ」
その光景を少し離れた場所で見ていたシレーヌが、扇子で口元を隠しながら満足げに呟いた。
「これこそが、第四の魔法【返報性の原理】の真髄。……自分から『奪おう』とするテイカーは結局何も手に入れられないけれど、まず自分から惜しみなく『与えた』ギバーには、最終的に何十倍もの巨大な利益が、相手の方から勝手に転がり込んでくるのよ」
シレーヌの言葉通り、アリサは恐縮しながらも、ウォン支店長から純金の名刺を両手でしっかりと受け取った。
「わ、分かりました……! 王都ギルドを代表して、ありがたくお受けいたします。今後とも、末永いお付き合いをよろしくお願いいたします!」
「おおっ、受けてくれるか! ありがとう、本当にありがとう、アリサ殿!」
ウォン支店長は、まるで命の恩人にでも出会ったかのようにアリサの手を握りしめ、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
一方、その奇跡のような逆転劇を、遠くから歯ぎしりをして見つめている男がいた。
先ほどウォン支店長からつまみ出された、中堅冒険者のザックである。
「な、なんでだ……! なんで俺様が追い出されて、あんなただの受付嬢が、東方商会のトップからペコペコ頭を下げられて独占契約を結んでるんだよぉぉっ!?」
ザックは髪を掻き毟り、血の涙を流さんばかりに悔しがっていたが、彼がその理由――『ギブ・アンド・テイク』の真の法則に気づく日は、おそらく一生来ないだろう。




